ももちゃんの一分間説教




今週の一句
浴衣召し 行く先楽し 暮れの街

―もとゐ―


 2006年8月6日(日)
 主の変容

 マルコによる福音書9章2節-10節

9,2 〔そのとき、〕イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
9,3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
9,4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
9,5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
9,6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
9,7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
9,8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
9,10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

 イエスは舟。

 人生航海の途中、艱難は幾度か。その都度、私たちの乗っている舟は大丈夫かと疑い恐れ不安になる。しかし、この世では絶対確かなものはない。家族、地域、国家、企業、金、等など。

 イエスもまた然り。彼には見栄えのするものは何もない、この世の保証するものは何一つない。見るべきものと言えば、唾棄すべき恥辱の十字架刑死のみ。

 イエスはこの世的救いからは最も遠い。本田哲郎神父が言う、イエスは炊き出しの列に並ぶ方にいる、のだ。

 人生航海で溺れている私たちの側にイエスはおられる。雲の中から聞こえた、神の声はそう言っている。「彼に聞け」
   
今週の一句
川遊び 炎暑に優る 子らのパワー

―もとゐ―


 2006年8月13日(日)
 年間第19主日

 ヨハネによる福音書6章41節-51節

6,41 〔そのとき、〕ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
6,42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
6,43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
6,44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6,45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
6,46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
6,47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
6,48 わたしは命のパンである。
6,49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
6,50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
6,51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 イエスは舟。

 イエスははっきりとご自分の使命を告げられる。あなたがたに永遠の命を与えるために神から遣わされたのだ、と。

 つまり、荒波で溺れかけているわたしたちの方へ手をすっと伸ばしている方がイエスなのだ。私につかまりなさい、そうすれば、死の淵から脱し、もっと豊かな人生が開かれるよ、と。しかし、つかまるか、否かはあなた自身の決断だよ、私はいつも手を伸ばしているだけだから、とイエスは言う。

 自力で脱しうる、あるいは、他の救助者を待つ、更に、溺れかけていることもわからない私たちにはイエスの心遣いに気がつかないであろう。イエスは十字架死まで待ち、今も待ち続けている。

 さあ、イエスの手をしっかり握ろう。イエスはもう私たちを離さない。豊かな人生に導いてくださる。
   
今週の一句
ほおずきや 墓前を一際 あかね色

―もとゐ―


 2006年8月20日(日)
 年間第20主日

 ヨハネによる福音書6章51節-58節

6,51 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
6,52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
6,53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
6,54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
6,55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
6,56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
6,57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
6,58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 イエスは舟。

 イエスの腕に捕まったとき私たちの人生は新しくなる。

 イエスの生涯というレンズを通して見るならば、私たちの命は神の命に触れる。

 「一粒の麦が死に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ。」死が多くの実を結ぶこと。

 「友のため命を捨てるより大きな愛はない。」捨てることの偉大さ。

 自己保存、私欲の増大こそが価値あるとするこの世界とは別の生き方が展開されている。


 イエスを師とし、糧として生きて行こうとするとき、イエスは決して見捨てない。

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

 さあ、イエス共に航海しよう。  
今週の一句
すいーすいーと つくつく法師 鳴始め

―もとゐ―


 2006年8月27日(日)
 年間第21主日

 ヨハネによる福音書6章60節-69節

6,60 〔そのとき、〕弟子たちの多くの者は〔イエスの話〕を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
6,61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
6,62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
6,63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
6,64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
6,65 そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
6,66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
6,67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
6,68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
6,69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 イエスは舟。

 新たな航海をと、イエスの腕に捕まり、引き上げられて前へ進み始めた。イエスの舟の安心さははっきりしている。必ず、私たちの人生を豊かにしてくれると。しかし、その豊かさは目に見えたり、触れたりできる即物てきなものではない、そこが、もどかしく、歯がゆい、手近な幸福を得ようとあせってしまう。

 イエスの導く豊かさとは神の世界、永遠の世界なのだ。その豊かさにはイエスをとおしてしか触れ得ない。擬似イエス的な者は多い、しかし、十字架死まで行ったイエスはいない。私たちはそのイエスにおいて神に触れられる、豊かな命になることを信じるのだ。イエスの舟に乗るとはそれを選ぶことなのだ。
   


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