ももちゃんの一分間説教




今週の一句
信号待ち  微笑み並び アガパンサス

―もとゐ―


 2006年7月2日(日)
 年間第13主日

 マルコによる福音書5章21節-43節

5,21 〔そのとき、〕イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5,22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5,23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5,24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
5,25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。
5,26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
5,27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5,28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5,29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
5,30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
5,31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
5,32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。
5,33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。
5,34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5,35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
5,36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
5,37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
5,38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
5,39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
5,40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
5,41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
5,42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
5,43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 イエスは舟。

 人生航海は順風とはいかない。時には、病気を得て生きることが困難になる。けれど、その困難を分かち合い、見守ってくれる人がいれば心強い。12年間、血の病気を患った女性を支える人や社会はなかった。むしろ、彼女を白眼視し、金をまきあげ、邪魔者として放り出してしまう社会や人しかいなかった。彼女には乗る舟がなかった。荒海に一人投げ出された人生だった。

 イエスはまさに舟。彼女のような困難な生を強いられている人々のもとへ遣わされた。

 私たちは、既に、安心して航海を続けられている。その喜びを彼女らに伝えたい、自らイエスの子舟になって漕ぎ出そう。
今週の一句
七夕や 短冊結び 空彼方

―もとゐ―


 2006年7月9日(日)
 年間第14主日

 マルコによる福音書6章1節-6節

6,1 〔そのとき、〕イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
6,2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
6,3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
6,4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
6,5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6,6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
〔それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。〕

 イエスは舟。

 私たちは、その人生航海をイエスという舟に乗った。それは、イエスに呼ばれたから、あるいは、病気の女性のように賭けたからだ。ということは、それまで馴れ親しんでいた舟を乗り換えた、捨てた、と言うことだ。当然、乗りなれたもの、親しんだ人や物、染み付いた考え方や価値観と別れなければならない。しかし、自己を再生し、他者と出会える航海となったことを知ったし、これからも続くことを信じている。

 私たちは、依然、古い舟に乗ったままの人に呼びかけよう。

 こっちの舟はあ〜まいぞ。
今週の一句
耳凝らし 数数えけり 蝉の音

―もとゐ―


 2006年7月16日(日)
 年間第15主日

 マルコによる福音書6章7節-13節

6,7 〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、
6,8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
6,9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
6,10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。
6,11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
6,12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。
6,13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 イエスは舟。

 私たちの周りには、一人で悩み苦しんでいる人たちがなんと多くいることだろう。悩みは、経済問題、職場での問題、依存症のこと、就職のこと等々、荒海に一人投げ出された人たちだ。しかし、私たちは気づかない、本人がSOSと言って飛び込んで来るまで知ろうとはしない。そんな私たちをイエスは派遣する。しかも、徒手空拳で。自己を誇るためにではなく謙虚に苦しむ人と出会うために。

 イエスの舟から下り、声をかけ、手を伸ばそう、イエスが居られることを告げに行こう。 
今週の一句
夕焼けや 明日を想いて 胸踊る

―もとゐ―


 2006年7月23日(日)
 年間第16主日

 マルコによる福音書6章30節-34節

6,30 〔そのとき、〕使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6,31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6,32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6,33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6,34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 イエスは舟。

 今、パレスティナ、レバノンを思うと胸が痛い。人々の苦痛、悲しみはいかばかりだろう。人々、特に、老人、女性、子どもたちは漂流している。悪の大きな力に翻弄されている。

 イエスの眼は、彼・彼女らに向けられている。こんな私に何が出来るのだろう、と嘆いている。そして、行動した。十字架の刑死まで。

 私たちも、彼・彼女らに出会って心動かされる。しかし、何も動かない。

 イエスに祈ろう、私を動かせてくれ、と。  
今週の一句
まよい蝉 手で押さえれば 身をもがき

―もとゐ―


 2006年7月30日(日)
 年間第17主日

 ヨハネによる福音書6章1節-15節

6,1 〔そのとき、〕イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6,2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6,3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
6,4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
6,5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6,6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6,7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
6,8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6,9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
6,10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6,11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
6,12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6,13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
6,14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6,15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

 イエスは舟。

 この奇跡物語、5千人への供食物語の背景には原始キリスト教団での聖餐式があっただろうと考えられている。聖餐式、即ちイエスご自身は多くの飢えた人々の必要を満たすものであると説明したのではないか。特に、このヨハネ福音書ではイエスの提供するものは肉的ではなく霊的なものであると展開されている。

 さて、今日の箇所での特徴的なことは、イエスが人々を座らせなさいと弟子に命じたことだ。原語では横たわらせなさいとなっている。即ち、イエスは来た人を誰一人拒むことなく、丁重に迎えもてなし、食卓に着かせられたということだ。

 イエスのこの開放性、仕えようとする気持ちは、私たちにもそうあるよう、呼びかけられている。

 イスラエルとレバノンでの戦闘も、このイエスの開放性、もてなす生き方がその事態を変えるかもしれない。

 私たちもイエスの心をパンとして食べよう。
   


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