ももちゃんの一分間説教

バックナンバー


今週の一句
アガパンサス 世界に発信 開花中

―もとゐ―


 2005年7月3日(日)
 年間第14主日

 マタイによる福音書11章25-30節

11,25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11,26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11,27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
11,28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11,29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11,30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 イエスは私たちに本当の平和を与えられた。

 人はみな、軛につながれて生きている。いわゆる、生老病死というものだ。人はその軛を軽くしようと何かに縋る。なかでも、宗教だ。宗教側は人々の信仰心を巧みに操作し、いっそう、軛を重たいものにする場合がある。イエスは宗教だけでなく、政治・経済の社会構造からも重たい軛を負わされて、苦難に生きる人々の荷を軽くしよとされた。それは、自らも担うという形であった。病にある人と共に、貧しい人と共に、差別される人と共に最後は、刑死される人と共に生きられた。

 私たちは、むしろ、自分の荷を軽くするために他者との関わりを少なくする。しかし、それが、いつのまにか、荷は加重されている。

 イエスは共に負って行こうと私たちを招く、あなた方の荷は私が担いでいるからと。イエスに頼りながら、人と関わって行こう。
今週の一句
七夕や 色とりどりの 短冊揺れ

―もとゐ―


 2005年7月10日(日)
 年間第15主日

 マタイによる福音書13章1-23節

13,1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13,2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
13,3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13,4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13,5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13,6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13,7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13,8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13,9 耳のある者は聞きなさい。」
13,10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13,11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13,12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13,13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13,14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
13,15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13,16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13,17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
13,18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
13,19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
13,20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
13,21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
13,22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
13,23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 イエスはすすんで荷を持ってくださる。

 イエスが示された神様はおおらかな農夫だ。パレスチナ的農法かもしれないが、種を大雑把に蒔かれる。日本的農業から見れば無駄でもったいないと非難されるほどいい加減だ。後者では一粒も無駄のないように緻密に計画的に蒔く。ましてや、道端、石地、茨の中には蒔かない、蒔く前にはきれいに整地、耕す、草一つも残らないように。収穫にしても、手入れをかかさない、収穫量は手間に比例するからだ。

 に比べ、神様である農夫は手間をかけない、むしろ、何処かしこと種を蒔きつづけ、実るにまかせている。或いは、実りを待ち続けている。

 神様は私たちがイエスの軛に繋がるのを待ち続けている。
 
今週の一句
初蝉や 本読む耳に 届きけり

―もとゐ―


 2005年7月17日(日)
 年間第16主日

 マタイによる福音書13章24-43節

13,24 〔そのとき、〕イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13,25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13,26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13,27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13,28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13,29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13,30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
13,31 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
13,32 どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
13,33 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
13,34 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。
13,35 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
13,36 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13,37 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、
13,38 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
13,39 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
13,40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
13,41 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、
13,42 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
13,43 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 神様は私たちに関わり続ける。

 今日の農家の親方も途方もないバカだ。

 毒麦も収穫まで刈り取るな、と農夫たちに命じている。ということは、ありえないはずの毒麦が良い麦に変わるのを待っているのだ。損を承知しているのだ。

 神様はそこまで私たちに関わってくださる。

 その有り難さに、私たちはイエスの軛に再度つながろう。
 
今週の一句
渇水にも 蔓伸ばしおり 朝顔か

―もとゐ―


 2005年7月24日(日)
 年間第17主日

 マタイによる福音書13章44-52節

13,44 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13,45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13,46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13,47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13,48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13,49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13,50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13,51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13,52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 神は毒麦を収穫まで育つにまかせられる。 

 広大な畑の中から宝を見つけ出すのは奇跡としか言えない。数多ある真珠の中から高価な真珠を見つけ出すのには優れた目利きの腕と、これまた縁に頼るほかない。

 これほどまでに、神は私たちのなかにある宝を待ち続けられ、宝が地上に現れ、光輝くまで他のすべてに勝って関わられる、ひとり子をお与えになる程に。

 私たちも他者の中にある宝を見つけよう。
 
今週の一句
氷菓子 二口噛んで 暑さ飛び

―もとゐ―


 2005年7月31日(日)
 年間第18主日

 マタイによる福音書14章13-21節

14,13 イエスは、〔洗礼者ヨハネが死んだこと〕を聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14,14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14,15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14,16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14,17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。
14,18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14,19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14,20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14,21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 神様は私たちを宝物と呼ぶ。

 神様は私たちを放って置かれない。弟子たちは自分らの食べ物を心配して、貧しい人々を解散させてくださいとイエスに言う。イエスはお前たちが分け合えと言う。イエスには貧しい人々を見過ごすことはできなかった。出来る限りのことをしよう、というのがイエスだった。後には、ご自身を与えることとなった。

 自分を優先する私たちは、私たちを優先するイエスの後に従って行きたい。


戻る