ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
節分を 前に積もりし 雪溶けり

―もとゐ―


 2005年2月6日(日)
 年間第5主日

 マタイによる福音書5章13-16節

5,13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5,14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5,15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5,16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 手袋は神からの幸いを届けます。

 新潟中越地震の被災地には無情にも大雪が降り続いている。

 イラクでは選挙後、テロ続発、混乱は増している。それらの人々が望むのは理解と応援ではないか。

 手袋は貰った人々に言った。「地の塩、世の光になれ。」つまり、社会へ働きかけることを勧めている。手袋はしまい込まれて、使われなければ意味がない、使われて、汚れて初めて生きられる。しかも、手袋は一枚きりではない、どんどん、届けられる。なんと、無償で、使わなければタンスの肥やしになるだけ。

 雪かき、雪おろしに、戦争の終結と平和の回復に、人々の和解に、…惜しみなく手袋を使おう。

今週の一句
日溜まりに 鳩羽休み 朝の駅

―もとゐ―


 2005年2月13日(日)
 四旬節第1主日

 マタイによる福音書4章1-11節

4,1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
4,2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
4,3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4,4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
4,5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4,6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」
4,7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
4,8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
4,9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
4,10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
4,11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 手袋を与えられた人は、その温もりを伝えるよう呼ばれています。

 私たちにとって最強の誘惑は何だろう。それは「一番になること」つまり、神になること、人の上に立つことではないだろうか。勉強、労働、趣味、雑学、ともかく、何でもいいから一つでも人に自慢できるものを持ちたい、というのがそれだ。金力、権力、腕力において人より優れたものをと誰もが願うのだ。

 なぜなら、社会、世間はそこにしか自分の価値を見いだしてくれないからだ。そして、私たちはねたみとひがみの無間地獄に落ちるのだ。

 しかし、手袋は神に出会った。手袋はおおいに喜んだ。というのは、神の懐に迎えられたからだ。神はこんなにも小さな自分に命を与え、食物を与え、交わりを与えてくださる。手袋は生かされていることをいたく喜び、感謝している。そして、自分も人々の生の喜びに与りたいと願うのであった。

人の上に立つことより、人と喜び合う道を歩みましょう。

今週の一句
朝まだき さえずり惹かれ 目を覚ます

―もとゐ―


 2005年2月20日(日)
 四旬節第2主日

 マタイによる福音書17章1-9節

17,1 〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17,2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。
17,3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
17,4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
17,5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
17,6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
17,7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
17,8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17,9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 手袋は喜んでいた、今、生かされていることに。

 手袋は喜びを伝えた。病んでいる人、貧しい人、孤独な人、圧迫されている人に。しかし、人の上に立ちたい者たちからは邪魔された。なぜなら、彼らは人と同列に見られたくなかったからだ。人との違いに優劣をつけているからだ。

 手袋は悲しかった、なぜ、人々はそんなにも差をつけたがるのだろうか。ねたみとひがみの無間地獄に生きて何がいいのだろうかと不思議がった。

 手袋を伝える人たちもそうだ。自分の生かされている喜びを伝えるはずが、いつしか、自分を伝えること、つまり、伝える自分が偉いものになってしまった。「ここにいるのはすばらしいことです」と。

 人の上に立ちたいとの思いはその無間地獄の中で、互いを傷つけ合う。手袋の受難はその渦の中に引き込まれたと言っていい。その渦から脱するには神の声を聴き続けること、自分の声にではなく。

 弱さに負けそうなとき、「これに聴」きましょう。


今週の一句
春浅き 浜辺は白き 風の紋

―もとゐ―


 2005年2月27日(日)
 四旬節第3主日

 ヨハネによる福音書4章5-42節

4,5 〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4,6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4,7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4,8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4,9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4,10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4,11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4,12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4,13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4,14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4,15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4,16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4,17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4,18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4,19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4,20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4,21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4,22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
4,23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4,24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
4,25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4,26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
4,27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
4,28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
4,29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
4,30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
4,31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
4,32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
4,33 4:33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
4,34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
4,35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
4,36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
4,37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
4,38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
4,39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
4.40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
4,41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
4,42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 人々は勘違いしている。一番になることが幸せだ、と。

 手袋は出会う人々に幸いを運んでくる。

 女性の人生は何か生きずらかった。来る日も来る日も重労働である水汲みをすることは彼女には非常に大きな苦痛であった。水汲みさえなければ、もっと私の人生は楽になるのにと思っていた。女性は苛立ちながら今日も水汲みに来た。

 手袋は重々しい足取りの彼女を見かけて声をかけた。彼女はただでさえ鬱陶しいのにと、関わらないようにした。しかし、めげずに、手袋は話しかけた、彼女の鬱陶しさを晴らせたらと。そして、ついに、彼女は叫んだ、水汲みに来なくてもいいようにしてください、と。

 ところが、手袋はなおも話しかけた。というのは、女性の顔が晴れなかったからだ。彼女はあれほど望んでいた水汲みの重労働から解放されるのに、なぜか、体の奥にはまだ大きな刺が残っているのだった。

 彼女は気がついた。私の人生がこんなにも生きぐるしいのは水汲みのせいではなかったのだ。私の願いは生きづらいと呻吟している私を、ありのままのこの私を誰かに受け止めてほしかった、甘えたかったのだ。しかし、周りの誰もそうではなかった。口を開けば、おまえが悪い、努力しろ、我慢しろ、と突き放すばかりだった。

 ところが、この手袋はちがった。私をありのまま、まるごと包んでくれたのだ。

 彼女は軽くなった。そして、人々のところへ飛んでいった。手袋に暖まりながら。

 勘違いに気づくよう手袋と対話しよう。


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