ももちゃんの一分間説教

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今週の一句
台風の 爪あと前に 立ちつくす

―もとゐ―


 2004年9月5日(日)
 年間第23主日

 ルカによる福音書14章25-33節

14,25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
14,26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
14,27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
14.28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
14,29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
14,30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
14,31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
14,32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
14,33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 マリアは思いがけない神からの招きに応えました。
  2000年前、古代ユダヤでは個人という考えはありませんでした。あくまで、家族や共同体の成員としてかみなされませんでした。たとえば、マリアはマリア一族のマリア、あるいは、ナザレの町のマリア、ユダヤの国のマリアであって、マリアは家族、共同体の利益と名誉を守ることだけがその務めだったのです。マリア個人の利益や幸福は求められなかったのです。
 従がって、マリアが家族ではなく神の呼びかけに応えるということは大きなスキャンダルになるのです。言わば、家族には恥じとなり、分裂となるのです。神への信仰はそうなることなのです。信仰ピスティスが忠誠、忠実の意味であると言われることがよくわかります。即ち、マリアは家族や共同体への忠誠ではなく神への忠誠を選らんだということです。まさに、狭い入口、お返しを期待しないことなのです。
  2000年後の今日でも、事態は変っていません。私たち個人の選択は自由でしょうか。右傾化にあって、家族や国家への、また、企業への忠誠が声高になっています。あるいは、日本社会の特徴である世間に私たちは縛られているのではないでしょうか。
 イエスへの信仰、忠誠はこの世の見返りを求めない、狭い入り口ですが、イエスは私たちをそこへ招くのです。マリアが死から生へ移ったように、私たちも応え、命を豊かにしましょう
 


今週の一句
幾度の 台風行きて 白露散る

―もとゐ―


 2004年9月12日(日)
 年間第24主日

 ルカによる福音書15章25-1-10節

15,1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15,2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15,3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15,4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15,5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15,6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15,7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
15,8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
15,9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15,10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 マリアは命を豊かにしようと、家を後にしました。

 そうです、財産を貰って家を出て行ったあの弟と同じです。家族を省みず自分勝手なことをしてと非難する兄のように、マリアは周囲から当然非難され、「罪人」と呼ばれ、再び、共同体には迎えられなかったのです。イエスもまた同様でした、大工の倅に留まっていればよいものを、神の呼びかけに応え預言者の如く振舞い、ユダヤ教指導者層を批判したばかりに、家族からは悪魔憑きと呼ばれ、指導者層からはやはり「罪人」とされ、極刑に処せられたのです。

 このように神の招きに応えることは、この世界からは非難され排斥されてしまうのです。まさに、「狭い戸口」「見返りを期待しない」ことなのです。

 しかし、神は彼らを見守り続けました。即ち、彼らに触れた人々は新しい人生を生きました。夢と希望を与えられたのです。私たちもそうです。

 人々の幸いのためこの狭い戸口から入りましょう。


今週の一句
大根の 種蒔き三度 迎えけり

―もとゐ―


 2004年9月19日(日)
 年間第25主日

 ルカによる福音書16章1-13節

16,1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。
16,2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。
16,3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16,4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16,5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16,6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16,7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16,8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16,9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
16,10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
16,11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
16,12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
16,13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 マリアを支えたのは神の見守りでした。
 
 力ある者が生き残るには人を支配することです。人を意のままにすることによって安泰できるのです。主人は自分の生き残りのため管理人の僕をやめさせようとしました。

 ロシアの学校占拠事件は人質を犠牲にして権力を守りました。現代の企業も容赦なくリストラします。

 マリアや弟も家族や共同体から排除されました。

 他方、力のない弱い者が生き残るにはネットワークが必要です。管理人は友を作りました。マリアもまたエリザベトと組みました。弟は父の大きなネットに救われました。

 イエスはそのネットワーク、即ち、神の国を広げたのでした。私たちはその網に掬われたのです。私たちもその網を延ばしましょう。

今週の一句
妻後ろ 前に花束 朝彼岸

―もとゐ―


 2004年9月26日(日)
 年間第26主日

 ルカによる福音書16章19-31節

16,19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16,20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16,21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16,22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16,23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16,24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16,25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16,26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16,27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16,28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16,29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16,30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16,31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 管理人は友だちのネットワークをつくって生き残りました。

 一方、乞食のラザロはどのネットにも繋らず、死んでしまいました。ラザロはどのような思いで死んでいったのでしょうか。身に受けた重荷をじっと耐え忍んでいたことでしょう。できものの痛みすら犬が舐めてやっと和らげられるほどだったのです。ラザロは片隅でひっそりとしか生きられなかったのです。このラザロの思いを誰が知るでしょうか。ましてや、金持には、ただの厄介者としかなかったでしょう。なんとなれば、ラザロを見ながらも金持の心は何も動かされなかったからです。むしろ、彼の関心は、収穫のこと、利益のこと、名誉を守ること、快楽を貪ることにしかなかったのです。

しかし、そのラザロに目を留め、心を痛めていた人がいました。この人は嘆いていました。そして、この方はラザロを神の国へと繋げたのです。この世では何の繋がりも持てず亡くなったラザロは神の国では繋がれたのです。

他方、金持は幾多のネットワークを持ちながらも、結局、そのネットは神の国では繋がれないものだったのです。なぜなら、ラザロと繋がっていなかったからです。

私たちのネットも、富を維持、拡大するためのネットではなく、ラザロの心を察し、彼と共生して行くネットにしたいものです。



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