ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「取っ手おせば かまきり睨む 朝出かけ」

―もとゐ―


 2004年8月1日() 年間第18主日

 ルカによる福音書12章13〜21節


12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 主の祈りは私たち人間が何であるかを明らかにします。
 私たちが神のもとにいるとき、「隣り人」になれるのです。しかし、神を忘れ、恵み を自分の所有にしれしまうと、「隣り人」を忘れてしまうのです。
 先日、豪雨の被害にあった福井の方たちに、宝くじ当選金の2億円を寄付した話しは 私たちをさわやかな気分にさせてくれました。同時に、教会も負けてはいられないと 思いました。何故なら、教会こそは神の恵みを一番頂いているからです。金額という よりも気持でしょう。生かされてあること、教会としてあることの幸いを喜び、苦し みのなかにある人と分かち合うことこそ、主の祈りなのです。


今週の一句

「見上げれば 大きく開く 大花火」

―もとゐ―


 2004年8月8日() 年間第19主日

 ルカによる福音書12章32〜48節


12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12:42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
12:43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12:44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12:45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12:47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12:48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

 恵みは蔵にではなく、放出せよ、とイエスは招いています。
 忠実な僕は、恵みを惜しみなく与えられるのです。というのは、僕の所有するすべて のものは主人から預けられたものだからです。そのうえ主人は気前の良い人だからで す。
 イエスは命さへ差し出しました。私たちも自分の命が誰かの役にたつなら、差し出し たいものです。生命、時間、能力、富それは神様がみんなに分配するようにと私たち に預けられたものなのです。


今週の一句
水遊び 子らの歓声 涼を呼び

―もとゐ―


 2004年8月15日(日)
 聖母の被昇天

 ルカによる福音書1章39-56節


1,39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1,40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1,41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1,42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1,43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1,44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1,45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
1,46 そこで、マリアは言った。
1,47 「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
1,48 身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
1,49 力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
1,50 その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
1,51 主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
1,52 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
1,53 飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
1,54 その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
1,55 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
1,56 マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

恵みを喜捨するよう、イエスは呼びかけています。
 マリアは、はしためであると、応えました。彼女は自分の存在、生命、境遇を神からの大きな恵であると受け取ったのです。それは、同じような境遇にある女性たちを励まし、導くために神様から頂いたものであるとの声を聴いたからでした。社会から蔑視されている自分たちが、実は神の目に留められていること、それは、この世の奢れる者たちの目を覚まし、この世を愛と平和に作りかえるためであるから、勇気と希望を持って生きようと呼びかけたのでした。
 小さな者に心をかける神を見いだしたとき、その生涯を神に捧げることが出来るのです。この世の力ある者は、神を見出さず、自分しか頼れないのです。それゆえ、蔵にしまい込むのです。
 

今週の一句
赤とんぼ 送る棺に 一休み

―もとゐ―


 2004年8月22日(日)
 年間第21主日

 ルカによる福音書13章22-30節

13,22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13,23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13,24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13,25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13,26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13,27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13,28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13,29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13,30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 マリアの人生の転換は神への信頼でした。
 神への信頼、この世では価値のない、おろかな、不確定ないつでもひっくり返る小さな狭い入り口です。信仰心の篤いと思われるような方でも何か起きると捨ててしまうようなものです。
 マリアを考えると、他に頼るものは何もなかったのです。田舎の貧しい女性でしかない、童謡「赤とんぼ」の詞にあるような、「15で姉やは、嫁に行き・・・」、そんな境遇にある女性が自分の人生を肯定するには、他の何に頼れるでしょうか。
 に較べ、私たちは頼れるものをたくさん持っているのです。広い入り口があるのです。
 今日、神の声を聞き、応えましょう。私たちには、その入り口しかないのです。
 

今週の一句
リコリスの 並びて咲けり 野辺の道

―もとゐ―


 2004年8月29日(日)
 年間第22主日

 ルカによる福音書14章1,7-14節

14,01 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
14,07 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14,08 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14.09 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14,10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14,11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14,12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14,13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14,14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

マリアは神の招きである狭い入り口に自分の人生を賭けました。
 この神からの招きは、神からの一方的な呼びかけ、選びです。マリアにしてみれば、思いがけない、何故、私がという驚きでした。神はイスラエルの救いのため、もっとふさわしいユダヤ教指導者ではなく、こんなに小さな私を選んだのか。マリアには驚きであり、疑問であるその神の招きを幸いと受け取ったのです。無論、その幸いは人間的な己を満たすことではなく、与えること、即ち、自分や息子イエスを与えること、まさに「狭い入り口」、「見返りを求めない招待」によって、実現する大きな課題となったのです。マリアはそこに自分の幸い、人生の目的を見出して、神の招きを受け容れたのです。
  私たちの信仰生活、それは神の国の上座に着くためではなく、人生の真実、自分を与える恵み、課題に挑戦することなのです。
 



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