ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「雨の朝 ラジオ体操 子どもらは」

―もとゐ―


 2003年8月3日() 年間第18主日

 ヨハネによる福音書6章24〜35節


06:24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
06:25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
06:26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
06:27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
06:28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
06:29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
06:30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
06:31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
06:32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
06:33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
06:34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
06:35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 イエスは人を飢えから解放するだけではなく、真の人へと導き出す。
 われわれはイエスを探す。それは、飢えが満たされるように、病から癒えるために、人生がうまく行くように、救われるために。願いがかなわないなら、別のイエスを探す。つまり、自分に都合のいいイエス、自己中心的イエスを見つけるのだ。
 そんなわれわれにイエスは言う。「私を信じなさい。」
 実は、われわれは自己を信じている、自己の必要を満たすために。イエスに従うと言いながら、自分に従っているのだ。
 神はイエスを甦らされた。人を「憐れみ」、人のために進んで己を空しくしたから。
 我々が己から脱し、イエスにおいて生きよう。自己中から解放されるだろう。

今週の一句

「薄暮れや 脱皮中の蝉を そっとのぞき」

―もとゐ―


 2003年8月10日() 年間第19主日

 ヨハネによる福音書6章41〜51節


06:41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
06:42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
06:43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
06:44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
06:45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
06:46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
06:47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
06:48わたしは命のパンである。
06:49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
06:50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
06:51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 イエスは私たちを永遠の生命に導きます。
 人々はイエスに今日のパンを求めに来たのに、イエスの訳の分からないことに腹を立てました。私たちも思い通りにならないと、つい、腹を立て、人のせいにして暴言を吐いたり暴力をふるうなどして、憂さ晴らしをします。そして、後で悔やむのですが。イエスはそんな性急な彼らに一呼吸つかせます。私とあなた方を出会わせるのは神様なんだよ。だから、ここは神様におまかせしよう。今日のパンも、また、永遠の生命のパンも、もらおうとか、分かろうとしちゃだめだよ。神様が私たちに働きかけてくださるのを待とう、て。
 もちろん、イエスは今日のパンを座して待て、と言っているのではありません。イエスは飢えた人たちに自分のパンを提供することをためらいません。ただ、自分と人々の関係がパンという物質的な授受ではない、それを越えたものにしよう、それには、神様にお任せする以外にはない、と言っているのです。
 私たちの炊き出し活動も、今はパンしか与えられないが、それだけでは、互いにいけないと思っている。いつかは、互いに永遠の生命に繋がることを神において希望している。目に見えることから見れないことへ、ゆっくり近づきましょう。

今週の一句

「打ち上げの 花火に勝る 月明かり」

―もとゐ―


 2003年8月15日(金) 聖母の被昇天

 ルカによる福音書1章39〜56節


01:39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
01:40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
01:41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
01:42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
01:43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
01:44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
01:45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
01:46そこで、マリアは言った。
01:47「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
01:48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
01:49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
01:50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
01:51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
01:52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
01:53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
01:54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、
01:55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
01:56マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 神はイエスを通して永遠の生命に導かれるよう、私たちを招いています。
 マリアやエリザベトの人生は、イエスの光を通して見なければ、悲しみと苦しみの辛い人生でした。ユダヤ教の人々は二人を律法違反者として罪人と呼び、差別と抑圧、蔑視と無視を続けたのでした。彼女らは孤立無援のなかで悲しみと苦しみにじっと耐えるしかありませんでした。イエスとの出会いによって、彼女らはその人生が祝福されたものであることに気づきました。イエスは彼女らに言います。神様が目を止めてくださっているのだ、と。それは、生きていて良かった、との神と自分からのOKなのです。
 そして、今、人生を辛く苦しく生きている人々への神からのメッセージとなったのです。

今週の一句

「大粒の 雨降りしきる 盂蘭盆会」

―もとゐ―


 2003年8月17日() 年間第20主日

 ヨハネによる福音書6章51〜59節


06:51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
06:52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
06:53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
06:54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
06:55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
06:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
06:57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
06:58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
06:59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

 苦難の人生だった二人をイエスは祝福されました。
 パンを求めに来る人、永遠の生命をいただこうとする者、苦難に疲れきった二人の女性にイエスは「隣り人」でいました。しかし、イエスが「隣り人」であることは誰にもわかることではありません。やはり、それは、神との出会いの体験の積み重ねです。マリアやエリザベトは聖書(旧約聖書)を繰り返し思い起こすことから、救われた女性と自らを重ね合わせたのです。
 私たちは、ミサにおいて、イエスの生涯を反復思い起こすことによって、「隣人」イエスと出会い見出すことができるのです。
 イエスは私たちに呼びかけているのです。私はいつもあなたのそばにいるよ、来てください、と。

今週の一句

「マリア像 携帯で写す 夏の暮れ」

―もとゐ―


 2003年8月24日() 年間第21主日

 ヨハネによる福音書6章60〜69節


06:60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
06:61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
06:62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
06:63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
06:64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
06:65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
06:66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
06:67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
06:68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
06:69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 ご自分において永遠の生命にいたる、とイエスは私たちを招きます。
 イエスにパンを求めに来た人々は、ついに、イエスから離れて行きました。やはり、パンを彼らは得たかったのでしょう。今度は、それまで、イエスと寝食を共にした弟子たちさえもが、もう、ついて行けないと去って行きました。弟子たちはイエスに永遠の生命に至るパンを求めました。それは、イエスについて行けば、永遠の生命とは褒美として貰える何かと思っていたのです。ところが、イエスはそれが私自身だ、と言っているのです。つまり、永遠の生命とは何かではなく、イエスにおいて身を置くとき見えるもの、聞こえるもの、だと言うことです。イエスに身をおかなければ味わえないのです。
 マリアやエリザベトは我が身をイエスにおいてはじめて幸いを見出せたのです。

 イエスは何かを求めても何もくれません。イエスに身を置き、生きることから見えてくるのです。

今週の一句

「夏往くや 海辺に遊ぶ 人少な」

―もとゐ―


 2003年8月31日() 年間第22主日

 マルコによる福音書7章1〜8節、14〜15節、21〜23節


07:01ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
07:02そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
07:03――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
07:04また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
07:05そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
07:06イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
07:07人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
07:08あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
07:14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
07:15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
07:21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
07:22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
07:23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 イエスにおいて永遠の生命を見出せる、とペトロは告白しました。
 イエスは人々に永遠の生命に至るパンを求めなさい、即ち、自分に身を任せなさい、と招きました。それは、私たち人間は、知識、力、信仰、決断という自力によっては決して永遠の生命、共観福音書では神の国を得ること、入ることは出来ない、イエスを通して神の賜物として頂くしかない、とイエスは告げるのです。
 ところが、ユダヤ教ファリサイ派はそのイエスの招きに垣根を張り巡らしたのでした。彼らにとっては律法、神の言葉として厳守しなければならないものでしたが、イエスはそれを「人の言い伝え」と呼び、神の言葉と区別しました。というのも、神の言葉は人を生かし、救うのですが、彼らの律法は自分を正当化し、人を分け、裁くものだったのです。イエスの言う「人間の心から」出るものだったのです。神の心から出るものは、連帯、共生です。互いに弱さを認め合い、ゆるしあって生きよう、ということです。
 私たちも、自分の欲望や利益のため単なる「人の言い伝え」を神の言葉と称して人を支配し抑圧してしまいます。教会の教え、掟、きまり、だから守り、行え、と。イエスに立ちかえり、そんなケチな神様を伝えないようにしましょう。


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