ももちゃんの一分間説教

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今週の一句

「降り積もる 雨上がりの街 銀杏色」

―もとゐ―


 2002年12月1日() 待降節第1主日

 マルコによる福音書13章33〜37節


13:33気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 目覚めよと、イエスは呼びかけています。
 平穏な日々はなかなか来ない。経済的不安、戦争テロの続発、凶悪事件の連続、等。
 一方では、盛んに、戦争を煽る輩がいる。他方には、改革に抵抗し弱者に痛みを強いる奴等がいる。ローマ帝国下にあったイエスの時代のユダヤも同様だったろう。
 しかし、イエスは目覚めていた。神の国はいま来ているのだ、と。権力争い、保守主義、いじめの横行している状況で、イエスは愛し合うことを勧め、実践した。
 今、私たちも弱くさせられた人々と共に歩むことに目を向けよう。神が来られるのだから。アドヴェント=主の再臨を待つ季節の初めにあたって。

今週の一句

「枯木立 装おうものは 野鳥の群れ」

―もとゐ―


 2002年12月8日() 待降節第2主日

 マルコによる福音書1章1〜8節


01:01神の子イエス・キリストの福音の初め。
01:02預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。
01:03荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
01:04洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
01:05ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
01:06ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
01:07彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
01:08わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 目を覚まして、日々を生きよと、イエスは招いています。
 暗雲立ち込め、きな臭い世の中ですが、「見よ」と聖書は呼びかけます。
 かって、第2イザヤはバビロニア帝国下で捕囚の民として搾取と抑圧に喘ぎ苦しんでいたユダヤ人たちに創造主であり出エジプトの神である主を忘れず、必ず、主は見捨てられず救いに来る、希望を持て、と呼びかけたのでした。
 今、また、同じく、ローマ帝国下、エルサレム神殿滅亡という破局に苦しんでいるユダヤの民にマルコは第2イザヤの預言を引用して、「見よ」神の救いの業が始まる、と呼びかけています。
 私たちも、今、苦しみにある人々にイエスにある神の救いの確かさを「見よ」と伝える者になりましょう。

今週の一句

「トンネル出で 雪にほころぶ 通勤客」

―もとゐ―


 2002年12月15日() 待降節第3主日

 ヨハネによる福音書1章6〜8節、19〜28節


01:06神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
01:07彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
01:08彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
01:19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
01:20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
01:21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
01:22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
01:23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
01:24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
01:25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
01:26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
01:27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
01:28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 洗礼者ヨハネは「見よ」と、私たちに救い主の到来を告げました。
 イラクへの米国、そして日本の対応、北朝鮮の挑発、道路公団の民営化問題と状況は国内外をめまぐるしく動いています。身近にあっても、ボーナスカットや税金値上げ等による生活への圧迫、毒事件への一審判決、と騒々しさが絶えません。そのようななか、識者たちはいかに生きるべきか、未来をどうすべきか、と根本的問題を考えるよう呼びかけています。たとえば、朝日新聞02年12月2日付の思潮21では「このような思想的に空虚な空間にテロリズムが突入してきたため、それに対する現実的な対処に追われて、人類の未来を描く努力がないがしろにされてしまった、…今最も必要なのはこれから10年後、20年後の世界をどのような方向に持っていくべきか、ということについての真剣な論議である。」と入江昭さんは言っています。また、同じく02年12月11日付の回顧2002音楽にも「時代の風向きは茫洋としたまま。不況という言葉も依然日常会話の枕詞だ。よりどころが見えない時は、原点回帰が、次なる一歩への足がかりとなる。」と述べています。
 洗礼者ヨハネの時代のユダヤの人々も混沌、殺伐としたローマ帝政下にあって、自分たちは誰か、神はいるのか、と原点を考えなおしていたのでしょう。荒野のヨハネの下に来たファリサイ派の人たちもそうだったのです。「あなたは誰で、何をしているのか、あなたは救い主なのか」と。
 ヨハネは目覚めていました。世の移り行く様に動揺することなく、その透徹した眼差しは神の働きを見ていたのでした。彼はエルサレムからの訪問者に答えました。「メシアは来る。」私たちもこのヨハネの目を持ちましょう。あわてずあたふたすることなく、確かな、神の救いの足音を聞きましょう。そして、日々の出会いを大切にしましょう。

今週の一句

「霜の原 幼き玉葱 青々と」

―もとゐ―


 2002年12月22日() 待降節第4主日

 ルカによる福音書1章26〜38節


01:26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
01:27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
01:28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
01:29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
01:30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
01:31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
01:32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
01:33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
01:34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
01:35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
01:36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
01:37神にできないことは何一つない。」
01:38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 ヨハネの目はエルサレムの権力者たちにではなく神の働きに届いていました。
 自衛隊は米国のテロ支援にイージス艦を派遣しました。イージスとはギリシャ神話に出てくる「神の盾」という意味です。米国や日本はテロリストやイラクからの武力攻撃に対し最新鋭最強の軍艦「神の盾」で守ってもらおう、ということらしいです。神様もかなわないでしょう。強い者はその強さを誇り守るために神さへも利用するのですから。
 私たちの神様はそのような政治的に利用される方ではありません。むしろ、政治から翻弄されるか弱くいと小さき者らを憐れみ生かされる方なのです。ローマ帝国占領下のユダヤ、弱い庶民たちは明日をもわからない不安のなかに生きていたことでしょう。彼らを導くよい宗教者、指導者もいません。彼らの唯一の希望は子どもが産まれ大きく育つことだったでしょう。無論、貧困のなか子を産み育てることは苦しみの多い難事業です。
 しかし、神様がマリアを呼出し、恵みを与え祝福されたのは、その難事業に取り組む当時の女性たちを認め、慰め、力づけるためだったのです。この恵みはマリア個人にではなく、同じ境遇のすべての女性に与えられたのです。「生まれてくるあなたの子どもは神の子であり、神の救いの働きを担うのだ。だから、あなたにもぜひ協力してほしい。私はいつもあなたのそばにいるから」との招きなのです。
 神様の招きは子育てには限りません。私たちの日々の働きを神の救いの働きに向けたとき苦しみは喜びに変わるのではないでしょうか。

今週の一句

「屋根の下 前野宿者らの クリスマス」

―もとゐ―


 2002年12月25日(水) 主の降誕

 ヨハネによる福音書1章1〜8節


01:01初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
01:02この言は、初めに神と共にあった。
01:03万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
01:04言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
01:05光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
01:06神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
01:07彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
01:08彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

 私たちの日々の働きは神の祝福にあるものだと、イエスは招きます。
 「初めにことばがあった。」「初め」、αρχγ、in the beginning、創世記1・1の「初めに神は天と地を創造された」の「初め」でもある。それは、世界、人類、そして私とあなたの原初、源点である。世界が何であり、私が何者であり、あなたが誰であるかを明らかにする。
 私、この卑小で欲深く罪人であり、何のとりえもないつまらない有害な存在。その私にも源点がある。それは世界を創造し、生命をつくり、他者を配置し、その中に、私を存在せしめた大いなる方がおられる。何と幸いなことか。
 イエス・キリストは来られた、それは彼を介して私たちはこの大いなる意思に連なることができる。その源点に帰るとき、あなたもわたしも、イラクも米国も、同じ食卓を囲むことができるのではないだろうか。
 クリスマス、それはわたしたちの「初め」に立ち返る時だ。

今週の一句

「クリスマス 母と幼子 白き衣」

―もとゐ―


 2002年12月29日() 聖家族

 ルカによる福音書2章22〜40節


02:22さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
02:23それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。
02:24また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
02:25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。
02:26そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。
02:27シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
02:28シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
02:29「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
02:30わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
02:31これは万民のために整えてくださった救いで、
02:32異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
02:33父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
02:34シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
02:35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
02:36また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、
02:37夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、
02:38そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
02:39親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
02:40幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

私たちの根源に戻りなさい、とイエスは呼びかけています。
母と子、そして父、家族を結ぶ根源は何だろうか。血だろうか。イエスの家族を見てみると、どうも、そうではないようだ。
イエスはマリアとヨゼフの血を分けた子どもではない。古代の英雄伝説的に描かれているが、マリアとイエスは血のつながりがあり、ヨゼフはいわば養父だということは確かだろう。それは、現代にもある。たとえば、子連れで再婚の場合や、養子を育てる夫婦な場合だ。これらのケースでの家族のつながりはどこにあるのだろうか。血ではない、三者の相互の関わりだろう。夫と妻、両親と子、それぞれ両者の関わりが三者をつないでるだろうが、その関わりの核となるもの、それは、やはり、相手への思いやり、慈しみ、ゆるし、といわれる愛があるに違いない。
イエスの家族の場合は聖霊に満たされている、とあるように彼らは神によって結ばれているのだ、即ち、まず、それぞれが神から受けいれられ、愛されていること、そして、各自が神からの賜物を頂いて、使命を持っていること、さらに、互いは各自の使命を果たすようにパートナーに徹したこと、最後に、マリアやヨゼフ、そして、イエスは自分を無にし、十字架につけ神に従ったことだ。
イエスの聖家族への招きは、この神を根底とした共同体、神の国への参入である。私たちは血を越え、利害を越え、互いの神からの使命を果たせるよう思いやり、支え合うパートナー、家族、となりましょう。


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