ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 くるくるり 落ち葉のダンス ネコの舞い 」
―もとゐ―


2001年12月2日() 待降節第一主日 マタイ 24:37〜44


23:35
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37
言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 今日から、教会は新しい年になりました。この年が平和で愛に満たされますよう 祈ります。
 私たちは十字架で盗賊と一緒に磔になったイエスを王、救い主と呼んでいます。 クリスマスはその主イエスの到来なのです。
さて、米国のアフガンへの攻撃はサディスティックになっています。日本をはじ め世界の指導者の誰も止めようとしません。狂気と言っても良いでしょう。この 狂気を前に、私たちは、目を覚まさねばなりません。一方的な正義を振りかざ し、他者を暴力で屈服させるのか、あるいは、粘り強い対話で相互理解し、共生 の道を創り上げて行くのか、どちらかを選ぶのです。もちろん、前者は報復の悪 循環を起こすだけです。
 イエスは十字架の死まで共生の道を歩みました。アドヴェントは神からの呼びかけです。私たちは人類生存か否かのこの時、心を イエスに向け、平和の道具になりましょう。

今週の一句
「 サクサクと 落ち葉踏みしめ 振り返る 」
―もとゐ―


2001年12月9日() 待降節第2主日 マタイ 3:1〜12


3: 1
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3: 2
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3: 3
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
3: 4
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
3: 5
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
3: 6
罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
3: 7
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3: 8
悔い改めにふさわしい実を結べ。
3: 9
『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3:10
斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
3:11
わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3:12
そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 目を覚ませとイエスは私たちに呼びかけています。
 洗礼者ヨハネは「天の国は近づいた」と私たちに悔い改めを呼びかけました。 9・11の同時多発テロは米を中心とする先進国には危機でした。危機は私たち を痛い目に合わせるため私たちを二分します。一方では覚醒することにより好機 になりますが、他方では心を閉じて防御することになります。残念ながら、米国 らの反応は後者となりました。報復の悪循環を繰りかえし、無辜の民を犠牲にし ています。
 洗礼者ヨハネの呼び掛けも危機でした。ある人々は好機と思い、悔い改めの時と して準備するのでした。しかし、ある人々は耳に痛いがために心を閉ざし、反発 するのでした。後者は血筋、伝統、権威に安住していたのです。ヨハネはそんな 彼らに、天の国においてそれらは無価値だ、大事なのは恵みに応えることだ、と 警告したのです。当然、彼らは反発し、ついには、ヨハネを亡き者にしたので す。
 アドヴェント、私たちにも耳の痛いことですが、ヨハネの声を聞きましょう。私 たちはブッシュや皇孫誕生の威勢のいい掛け声、等に付和雷同するのではなく、 イエスキリストが身を持って示された神の御心、弱きもの虐げられた人々を大事 にする視点へ心を改めましょう。

今週の一句
「 ハラハラり 木の葉舞い散り 冬陽照り 」
―もとゐ―


2001年12月16日() 待降節第3主日 マタイ 11:2〜11


11: 2
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11: 3
尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11: 4
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11: 5
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11: 6
わたしにつまずかない人は幸いである。」
11: 7
ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
11: 8
では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11: 9
では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
11:10
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
11:11
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

 預言者の声に耳を傾けよ、とイエスは私たちを招いています。
 洗礼者ヨハネはこの世の権力者に捕らえられました。この世にあっては、真実は 覆い隠されてしまいます。獄中でイエスの噂を聞いたヨハネは弟子たちをイエス のところへ遣りました。「来るべき方はあなたですか。」ヨハネにしろ弟子たち にしろ、到来するメシア、救い主が誰であるかは知る由もありません。頼りにな るのは権威や伝統でしかありません。ユダヤ教指導者たちはそれに頼りすぎてイ エスを受け容れられなかったのです。彼らは自分の知識、経験からだけでしかイ エスを見ることができなかったのです。
 それに対し、イエスはヨハネの弟子に説明や解釈をしませんでした。ただ、目の 前の現実を報告しなさい、と言っただけでした。そこに,彼らが見たものは、こ の世でマイナスとしか見なされず、片隅で生きることを強いられた人々の生を喜 び踊る姿だったのです。イエスに触れられた人々にとって人生が輝いて見えたの でしょう。しかし、この現実だからこそ、知識ある者、力ある者には不愉快で受 け容れられなかったことなのです。 これを聞いたヨハネはイエスに後を任せました。我が身を老兵として去り行くこ とを覚ったのでしょう。時代は変わりつつある、全く新しいことが始まっている ことを予感したことでしょう。
 私たちが福音、危機に対処するにはヨハネのように、出て行くこと、現実を見 ること、受け容れることが必要なのです。

今週の一句
「 凍りつく フロントガラス 冬至なる 」
―もとゐ―


2001年12月23日() 待降節第4主日 マタイ 1:18〜24


1:18
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25
男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 洗礼者ヨハネはイエスに時代の徴を読み取ったように、私たちも神のみ旨を聞き 取るよう招かれています。
 小泉政権の「改革」の叫び声は勇ましく聞こえてきますが、中味は先送りで、結 局は自民党政権、官僚、大企業の延命策でしかありません。反面、その痛みを負 わされる貧しい国民の声は黙殺されています。
 神の救いは、初め、改革者の洗礼者ヨハネを通じユダヤ教指導者に届けられまし た。生活に喘いでいた庶民たちは悔い改めましたが、彼らは自己保身により耳を 傾けず、うるさいヨハネを捕らえてしまいました。ユダヤ教指導者たちは宗教家 でありながら、神に生かされていることを忘れ自力に頼って、むしろ、神を仕切 って生きていたのでした。それ故、神の声を聞こうとはしなかったのです。
 神は次にその庶民であるヨゼフとマリアを通して救いの計画を実行しようとさ れました。ヨハネから神の国は近いと聞いていた彼らは、神の救い主の両親にな れとの呼びかけに身を投じることが出来ました。彼らは貧しく虐げられた中で、 日々の暮しや命そのものを神のみに頼るしかなかったのです。それだからこそ、 未来をも神にまかせられたのです。
 私たちは神を信じるといいながら、自己に頼っていないでしょうか。ヨゼフた ちのように日々生かされていることを感謝し、呼びかけに応えられるよう身軽に なりましょう。

今週の一句
「 サンタさん 世界にあふれん 降誕祭 」
―もとゐ―


2001年12月25日(火) 主の降誕 ルカ 2:1〜14


2: 1
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2: 2
これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2: 3
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2: 4
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2: 5
身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2: 6
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2: 7
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2: 8
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2: 9
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

 さて、今日、幸いに、私たちはクリスマスのミサに集まり、静寂な一時を味わっ ていますが、なぜ、私たちは「今、ここに」いられるのでしょうか。
 9:11にはご存知のように,米国ではテロがあり多数の人が一瞬の内に殺され ました。また,今なお、アフガンでは米国の報復戦争により数知れない多くの市 民たちが巻き添えになって死んだり、難民となって寒さと飢えにより死線をさま よい続けています。
 このように、一方では、このように世界には死んだり傷ついたりしている人々 がいるのに、他方、私たちは、「今、ここで」クリスマスを楽しんでいます。こ んな不平等があること、それは、どうして何でしょうか。
 テロの原因は世界の不正義不平等から来ています。世界の5分の1の人が飢餓 や貧困のために「非人間的生存」を強いられている、そのような富める国の貧し い国々への抑圧が怒りや怨念となりテロを生んでいます。我が国日本はその抑圧 する側にいて、私たち国民はその構造の上に飽食しています。従って、今回のテ ロ、アフガンへの戦争によって殺されていった人々は、実は、私たち日本人の生 活、生き方に深く関わっていることになります。
 この不公平不平等の世界に、神様は幼子イエスをプレゼントされたのです。聖 書の中に、大金持ちと乞食ラザロの話しがありますね。みなさんもきっと読んだ ことがあるにちがいありません。大金持ちは毎日、高価な服を着て美味いものを 腹一杯食べて贅沢に暮らしていました。他方、乞食のラザロは病気に苦しみなが ら、大金持ちの残り物でも食べたいと思いながらも、食べることはできず、つい に、飢えで死んでしまいました。神様はこのラザロを天国に迎えましたが、大金 持ちは地獄の苦しみを味わうはめになりました。その大金持ちに神様が言われた ことは、「お前がすべきことはラザロの手を取り一緒に生きることだった。しか し、お前はラザロを思い遣ることなく、自分の楽しみだけに生きたから、今、そ の報いを受けているのだよ。」と。
 イエスが幼子として、また、野宿同然の状態で生まれたのは、神様はあのラザロ と同様に人から見捨てられ、無視され、殺されるいと小さき人々と共に生きる方 であり、イエスを受け容れる人々もまた小さき者たちと連帯して生きることを選 ぶのだよ、というルカのメッセージなのです。
 グローバル化の世界にあって、私たちは利己的に生きるのか、他者と共に分か ち合いに生きるのか、選択の時に、神は、今日、わたしたちを招いているので す。

今週の一句
「 大晦日 炊き出し並ぶ ホームレス 」
―もとゐ―


2001年12月30日() 聖家族 マタイ 2:13〜15、19〜23


2:13
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2,15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
2:20
言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
2:21
そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。
2:22
しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、
2:23
ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 幼子イエスに神のメッセージを見なさい、とわたしたちは呼ばれています。
 イエスの父ヨゼフや母マリアは己の本分をわきまえていました。社会的には下層 で,経済的には極貧に生きなければならない彼らは、この世にては搾取され無視 されるいと小さき者たちでした。そんな者に目を留められた神に応えて、彼らは 人生を神に賭けられたのです。わたしたち人間が自分の知恵や力に頼って人生を 切り開いて行こうとしたとき、ユダヤ教指導者やヘロデ王のように幸いにならな いのです。
 「念仏のみぞまこと」という親鸞の言葉は、「仏さまの知恵に助けられて、真実 のいのちを生きようとすることにほかなりません。」※とあるように、キリス トに目を留められた私たちはヨゼフやマリアと共に神の導きに従って生きましょ う。
※ 『現代によみがえる歎異抄』高史明


今週の一分間説教 Gospel on this week