ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 息切らす 坂の上には 柿たわわ 」
―もとゐ―


2001年11月4日() 年間第31主日 ルカ 19:1〜10


19: 1
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19: 2
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19: 3
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19: 4
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19: 5
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19: 6
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19: 7
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19: 8
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19: 9
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

 神を信じ軽やかに生きよう、とイエスは私たちを招いています。
 イエスは自分を信じ、救いを求める者に目を留められます。エリコの近くでは、盲人の見えるようになりたい、とのイエスへの必死の叫びに応えられました。また、エリコではイエスを通して神に受け容れられたいと願うザアカイの熱心さに目を留められました。他方、盲人や徴税人の頭であるザアカイを共同体から閉め出してしまう「信仰」深いファリサイ人は、自分に驕り救いを当然としているため、名も無いイエスを認めず、むしろ、排斥するのでした。
 イエスが盲人やザアカイに応えられたのは、それによって、驕り高ぶりにより目の開かれていない「信仰」ある人々の「目が見えるように」するためなのです。
 私たちは値しないにもかかわらず神が愛していられることに気づき、その愛に応えられるよう、他者との交わりに生きましょう。

今週の一句
「 猫たちの かたまりて寝る 冬の午後 」
―もとゐ―


2001年11月11日() 年間第32主日 ルカ 20:27〜38


20:27
さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
20:28
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20:29
ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
20:30
次男、
20:31
三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
20:32
最後にその女も死にました。
20:33
すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
20:34
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
20:35
次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
20:36
この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
20:37
死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
20:38
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

 ザアカイと食卓を共にしたイエスは、私たちも加わりなさいと招いています。
 自分たちが「罪人」と見なしている者に、救いが来た、と告げるイエスに反感を 持ったユダヤ教指導者たちは、何かと因縁をつけてイエスを葬り去ろうとやっき になっています。 私たちも己の不正、罪を指摘されたとき、打ち消したり誤魔 化したり、時には暴力で黙らせようとします。しかし、それは結局、ビクビクし て疑心暗鬼にしか生きられなくなってしまいます。
 ユダヤ教指導者らは、むずかしい神学論争をイエスに持ちかけて誤った答えを する彼を陥れようとしました。しかし、イエスは彼らの問題そのものが間違って いるとし、神学論争をするより、生きている神のみ旨に従え、即ち、隣人を愛し なさい、ザアカイと連帯しなさい、と語るのでした。
 私たちも自己の正当化に信仰論争を持ちかけますが、肝心なことは、人々に仕 えることなのです。そこに、神はいきているのです。

今週の一句
「 街路樹や 枝を払われ 冬立ちぬ 」
―もとゐ―


2001年11月18日() 年間第33主日 ルカ 21:5〜19


21: 5
ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
21: 6
「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
21: 7
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
21: 8
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
21: 9
戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
21:10
そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
21:11
そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
21:12
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
21:13
それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
21:14
だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21:15
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
21:16
あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
21:17
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
21:18
しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21:19
忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

 生きている主に従え、とイエスは私たちを招いています。
 米国のアフガンへの空爆は一ヶ月以上続き、タリバン崩壊後も無意味な殺戮を繰 り返しています。政治においては、民衆の子供、女性、老人の生命は全く軽視さ れています。
 ローマ帝国下のユダヤにても同じでした。ユダヤ人支配者らは、自己の利益の ため民衆を苦しめ、ユダヤ教はそれを正当化する役目をはたしていたのです。紀 元70年、ローマ軍によるエルサレム神殿破壊はユダヤ人の反ローマ戦争の終焉だ ったのです。その戦いにおいても、か弱い民衆は多数犠牲となったでしょう。殺 されて行った人々の側に立って発言した人はいたでしょうか。イエスは名もなき 民衆と共に生き、権力に殺されるまで発言し続けました。
 私たちもアフガンの民衆、テロの犠牲者、苦難にある人々の側に立ち、愛と正 義を発言して行きましょう。

今週の一句
「 柿の実を 赤く残して 里の冬 」
―もとゐ―


2001年11月25日() 王であるキリスト ルカ 23:35〜43


23:35
民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36
兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37
言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 常に、弱い立場の人と共にいなさい、とイエスは呼びかけています。
 ルカはイエスの生涯が聖霊に導かれたもの、言い換えれば、神に己を明渡した生 涯であったと描いています。母マリアの聖霊による受胎、聖霊に導かれた荒野で の悪魔との闘い、ナザレの会堂での説教、エルサレムへの旅、などにそれを明ら かにしています。さらに、十字架上での最後のことばは、「父よ、わたしの霊を 委ねます。」となっています。
 しかし、イエスの神への自己譲与は彼が信仰ある人、優れた者だったからでき たのでしょうか。イエスと並んで十字架につけられた犯罪人の一人は自分の罪深 さに慄き、神に救いを願っています。即ち、神に自己を委ねているのです。他 方、もう一人は、罪を認めるどころか、むしろ、不運を嘆き、神や他者を呪って います。この期におよんでも、彼は自分を誇っているのです。これは、神殿で祈 った二人の人の話しと同じです。また、律法学者やファリサイ派の人たちと「罪 人」とのことなのです。
 イエスもまた自分の弱さ、罪深さに恐れ慄いていました。それ故にこそ、彼は 神に委ねることしかできなかったのです。自力においては何も出来ないことを知 っていたのです。神の恵みはそこに働いたのです。
 王たるキリスト、それは弱さにこそ神がおられることを祝うことです。


今週の一分間説教 Gospel on this week