ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 金木犀 武力回避の 輪を広げ 」
―もとゐ―


2001年10月7日() 年間第27主日 ルカ 17:5〜10


17: 5
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17: 6
主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17: 7
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17: 8
むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17: 9
命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10
あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 イエスは貧しいラザロを見なさい、と私たちに呼びかけています。
 紫の衣を着た大金持ちやユダヤ教指導者たちはイエスの回心への呼びかけを聞き ませんでした。弟子たちは自分たちが回心し、小さき者らを躓かせないようにイ エスに信仰を増やしてくださいと頼みました。私たちが自分の信仰を小さい、駄 目と感じるのは、大きな問題に国際間の紛争や貧困など対する無力さを感じた り、己の弱さを隠している時ではないでしょうか。
 しかし、私たちが何もできないと沈黙していれば状況は悪くなる一方です。
 イエスの芥子種一粒の信仰とは自らの無力さにおののきながらも、「木に動 け」と一途に神に祈ることなのです。イエスご自身一人でユダヤ教に回心を呼び かけたように。
 私たちは駄目と言う前に一歩踏み出しましょう。

今週の一句
「 コスモスや アラブ米英 一になり 」
―もとゐ―


2001年10月14日() 年間第28主日 ルカ 17:11〜19


17:11
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17:12
ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17:13
声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14
イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17:15
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17:16
そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:17
そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17:18
この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17:19
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 いと小さきものの叫びに応えられる神を信じ従え、とイエスは呼びかけていま す。
 イエスの神の国の宣教に耳を傾けなかったのは、ユダヤ教指導者や政治家、金持 ち、いわば、この世の優者たちでした。他方、喜びの訪れと受け容れた人たち は、女性、貧乏人、病人、罪人ら、いわゆる、この世の劣者でした。前者たちと の違いは、彼らが自分に何一つ頼るものがなく、無力さに恐れおののいていたの です。それに対し、勝者たちには己に頼るものがあり、神さえも利用できると思 い上がっていたのです。
 重い皮膚病を患った者のなかにさえ、自分のユダヤ性に頼り神の癒しを当然と 思い上がっている人々がいたのです。感謝のためイエスのところへ戻って来たサ マリア人は、差別され、病気の苦しみの他に、身を隠して恐れて生きていたので した。そんな彼に神が癒されたことは、全く畏れ多い有り難いことだったので す。彼はうれしさのあまり身を躍らせてイエスのもとへ来たのでした。
 私たちがキリスト者であるから神の働きが行われるのではないのです。身を低 くし己の無力さ罪深さに打ち震えている者に神がいてくださるのです。アメリカ の正義にではなく難民や貧民に神はおられるのです。私たちも彼らと連帯しまし ょう。

今週の一句
「 眺むれば 月の清かに 一つなり 」
―もとゐ―


2001年10月21日() 年間第29主日 ルカ 18:1〜8


18: 1
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18: 2
「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18: 3
ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18: 4
裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18: 5
しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18: 6
それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18: 7
まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18: 8
言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 我が身への神の働きを賛美しようとイエスは私たちに呼びかけています。
 テロリストへの米英の報復攻撃は成果なく、いたずらに、市民たちを殺傷しています。テロリストも米英も互いの神に相手をやっつけることを祈り求めています。しかし、その陰で、殺されて行く無辜の人々の嘆きは誰が聞いてくれるのでしょう。結局、神もまたこの世の力ある者の味方なのでしょうか。
 イエスは当時のユダヤ社会で片隅に追いやられ、虫けらのように扱われていた人々の呻き声を代弁し、私たちこそ神から愛されているのだ、あなたたたちは心を入れ替え、弱者と連帯して生きなさい、それこそが、神の喜ばれることなのだ、と宣教したのでした。それは、武力にではなく、愛において訴えたのでした。
 米英、また、日本は事を急ぎ、武力でテロリストを捻じ伏せようとしているのですが、報復は報復を呼び解決の出口は見つからないのです。
 私たちは、イエスのように敵視されても、自己の利益のためにではなく、殺されて行く無辜の人々のために、たゆまず祈りながら愛をもって和解を叫んで行きましょう。

今週の一句
「 ゴムまりと 弾む幼子 秋遠足 」
―もとゐ―


2001年10月28日() 年間第30主日 ルカ 18:9〜14


18: 9
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12
わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14
言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 神に信頼し、たゆまず祈れとイエスは呼びかけています。
 自己の弱さ、罪深さに気づくとき人は謙虚にならざるを得ません。しかし、それ を隠す時、私たちは他者を威圧したり貶めたりします。米国のタリバンやテロリ ストへの攻撃は自分達の不正を隠すための「正義」の名を借りた報復かもしれま せん。私たちも、名誉や権力を守るため自分より弱い人々を差別や暴力で苛めて も平気です。
 イエスの時代のユダヤ人は職業や性、民族、貧しさ、疾病によって人を差別し、 それを宗教の名のもとに正当化し、自分らの地位、富を維持していました。それ に対し、イエスはそういう虚勢の生き方を批判し、自己の罪深さに気づき、にも かかわらず受容してくださる神のもとにおいて互いに連帯して生きて行こうと、 自らの命を与えてそれを示されたのでした。弱さの中で、からし種一粒の信仰し かなくても互いが受け容れ合って生きようとイエスは呼びかけるのです。
 私たちは肩肘張って無理に生きるのではなく、互いを認め合ってイエスの様に 軽快に生きよう。


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