ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 存在を ひかえめに誇る 花一分 」
―もとゐ―


2001年4月1日() 四旬節第5主日 ヨハネ 8:1〜11


8: 1
イエスはオリーブ山へ行かれた。
8: 2
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8: 3
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8: 4
イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8: 5
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8: 6
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8: 7
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8: 8
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8: 9
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 人をゆるすように、イエスは私たちを招かれます。
 私たちは神の愛とゆるしによって、再び、生を授かりました。それゆえ、私たちの使命は死に瀕している人々の生命の回復を手助けすることです。まさに、生かし合うことです。
 しかし、なんと私たちは人を軽視し傷つけていることでしょうか。あの兄は弟を非難し拒否して、結局は、自己をも受け入れられなかったのです。ファリサイ人や律法学者も女性を裁くことによって、己の悪に目を塞いだのでした。実に、私たちは、人を裁くことによって、自己を裁かれているのです。イエスの彼らへの言葉がそうなのです。
 むしろ、私たちファリサイ人たちはこの恵まれない女性の生が回復されるよう手助けすることが求められているのです。そのことは、私たちの生をも取り戻すことになるのです。女性を物としない生き方、弱者と共にある生き方へと転換させるのです。
 さあ、生かされている私たちは人と生かし合う道を歩みましょう。

今週の一句
「 身を硬く 旅立つ君と 花の宴 」
―もとゐ―


2001年4月8日() 受難の主日 ルカ 19:28〜40


19:28
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19:29
そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19:30
言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19:31
もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19:32
使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19:33
ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19:34
二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19:35
そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19:36
イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19:37
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19:38
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
19:39
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19:40
イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 弱い立場の人たちと連帯しなさいとイエスは呼びかけます。
 ルカによればイエスの宣教旅行は、「貧しい人に福音を、捕われ人に解放を、主の恵みの年を」告げ知らせることでした。そして、それは、徹底的、無条件な愛とゆるし、無抵抗非暴力において実現することでした。
 今日のイエスの最終目的地エルサレムへの入城の物語もそれを象徴しています。即ち、イエスの子ロバでの入城です。民衆が歓呼して出迎えようとした救世主イエスは飾り立てた騎馬に威風堂々と跨ってきたのではなく、貧弱な初めて人をのせた子ロバにたぶん揺られながら乗ってきたのでした。私たちは古代ローマの時代から、最近の湾岸戦争まで凱旋パレードには最新最強の兵器とともに行進する姿を目にしてきました。それは、紛れもなく武力の勝利、平和を象徴しています。しかし、その華々しさは、幾多の尊い命の犠牲を隠蔽しています。
 イエスのもたらした神の国は犠牲の上に建てられるもの、まして、軍事力によって作られるものではありません。それは、子ロバによるものなのです。弱い貧しい人々が互いに愛し合い、ゆるしあい、与え合うことによって実現されるものなのです。イエスの十字架はその極みなのです。
 さあ、私たちも子ロバに乗って、神の国を伝えに行きましょう。

今週の一句
「 花冷えや 職を失い 身は震え 」
―もとゐ―


2001年4月12日(木) 聖木曜日 ヨハネ 13:1〜15


13: 1
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13: 2
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13: 3
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13: 4
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13: 5
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13: 6
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13: 7
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13: 8
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13: 9
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13:12
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13:13
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13:14
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 人々と和解して神の国を広めなさい、とイエスは私たちに呼びかけます。
 平和の君としてエルサレムに入城したイエスは迫り来る終局を前に弟子達と過越祭を祝いました。食事の最中、イエスはペトロたちの足を洗いました。それは、イエスが関わった者は神によって愛される、ゆるされるのだ、と言うメッセ―ジだったのです。というのは、過越祭が記念する出エジプトの出来事は、神が子羊の血を塗ったユダヤ人の家を過ぎ越して、エジプト人から彼らを救った、ということだったのです。
 つまり、イエスの洗足は子羊の血なのです。イエスは弟子たちが裏切ることを知っていたからこそ、その弟子たちとの関わりをもつことによって神からのゆるしのあることを示したのです。何よりも、私たちにとってイエスはゆるしであり、愛であるからです。
 ペトロが足を洗うイエスを止めさせようとしたとき、イエスは何のかかわりもないもなくなる、と言ったのは、まさに、イエスがかかわらないならば神のゆるしもない、ということなのです。
 イエスはあなたがたもするように、と言われました。私たちは互いを認め受け容れあいましょう。それがイエスを記念することなのですから。

※【参照】出エジプト 12:1〜8、11〜14

今週の一句
「 新緑や 誓い新たに 背を伸ばし 」
―もとゐ―


2001年4月13日(金) 聖金曜日 ヨハネ 18:1〜19:42


13: 1
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
13: 2
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
13: 3
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13: 4
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13: 5
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
13: 6
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
13: 7
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
13: 8
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
13: 9
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
13:10
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
13:11
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
13:12
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13:13
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13:14
ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 足を洗い合うように、イエスは私たちを招かれます。
 イエスは子ロバに乗ってエルサレムにやって来ました。それは、愛とゆるしの神の国を広げるため、即ち、人々の回心を勧めに来ました。しかし、特に、ユダヤ教の指導者たちは聞く耳をもっていませんでした。既得権益を持てば持つほど、頑なに心を閉ざし、ついには、敵視し、殺害を企てるのでした。
 「新しい歴史教科書を作る会」は聞く耳を持たないようです。国内はもとより中国・韓国からの批判があるにもかかわらず、むしろ、その教科書を学校で使われるよう地方議会に働きかけているようです。そして、その結果、「日の丸」「君が代」が教師たちの「踏み絵」になったようなことになるかもしれないのです。歪曲美化した歴史が教えられ、それ以外は教えられない戦前にあったことが横行しようとしているのです。
 ピラトが言うように、イエスには罪はないのです。にもかかわらず、殺されました。
 私たちは、真理や正義に目を塞いでいないでしょうか。虚偽・不正に手を貸していないでしょうか。イエスの死は私たちに迫ります。
 さあ、私たちは罪なき者、無垢な人々が尊重されるように悔い改めましょう。

今週の一句
「 春の田の 雉の雄叫び 眠り裂き 」
―もとゐ―


2001年4月14日(土) 復活の主日 ルカ 24:1〜12


24: 1
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
24: 2
見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
24: 3
中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
24: 4
そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
24: 5
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
24: 6
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24: 7
人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
24: 8
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
24: 9
そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
24:10
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11
使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
24:12
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 悪に目を閉じないようにとイエスは私たちを招かれます。
 イエスの宣教の旅は続きます。ルカによれば、それは、ガリラヤから始まりエルサレムそして、ローマ、全世界にまで至ります。イエスによって神の国は一民族を越え、ローマの国境を越え全地の隅々まで拡がって行きます。何故ならば、イエスは無一物だった生命さへ持たない方だったからです。
 他方、当時のユダヤ教はそうではありませんでした。所有に固執するゆえに、閉鎖的排他的になり自浄作用を失い、滞留してしまったのです。まさに、墓穴の死体のようなあり様でした。イエスはそんな彼らに新しい息を吹き込もうとしたのですが、持ち物を失いたくないために彼らはイエスを抹殺したのです。
 私たちも持てば持つほどそれに執着し、捕われるのです。教会や修道会、そして、日本社会もユダヤ教と同じです。例えば、ホームレス問題が解決されないのは自己の利益を失いたくないからです。そのため、ホームレスには無理解と偏見で身を固め、排除し、自らを変えて、連帯しようとはしないのです。
 さて、神はイエスを甦らせました。何故なら、イエスは留まらない方、持たない方なのですから。イエスはまた宣教の旅を始めました。
 イエスの復活。それは「ここにはおられない。」との天使の告知、即ち、停滞するな、さあ、外へ向かって出て行こう。自らを変革し、他者と連帯して行こう、とのメッセージなのです。
 今や、私たちは出掛ける時なのです。

今週の一句
「 新たらしき 旅立つ君の 若葉濃く 」
―もとゐ―


2001年4月22日() 復活節第2主日 ヨハネ 20:19〜31


20:19
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23
だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
20:24
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20:30
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20:31
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 私は甦られた、と伝えに行きなさい、とイエスは私たちに呼びかけます。
 イエスの復活は事実ではありません。イエスの生涯を意味付ける表現なのです。イエスの歩まれたこと、出会った人々にとってのイエス、イエスの十字架の死、それらは一体何だったのかを、イエスに出会った人々が心の目で見つけたことなのです。もちろん、彼らは旧約聖書や当時の宗教思想、文学等からイエスを見出したのです。従って、私たちは、イエスの復活を歴史的事実としてではなくイエスの生への信仰告白として受け止められるのです。
 しかし、いつの時代にも、事実と信仰告白を混同する人々は絶えません。トマスもそうでした。復活したイエスの体に打ち込まれた釘の後を見たいというのですから。それに対し、イエスは信じる者になれ、とトマスに呼びかけます。
 私たちはイエスの復活を確かめるのではなく、イエスを復活させた神の働きを信じ、イエスのように他者に仕える者にこそなりましょう。

今週の一句
「 なんじゃもんじゃ 地下鉄上がり 見上げけり 」
―もとゐ―


2001年4月29日() 復活節第3主日 ヨハネ 21:1〜14


21: 1
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
21: 2
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
21: 3
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21: 4
既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
21: 5
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
21: 6
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
21: 7
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
21: 8
ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
21: 9
さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
21:10
イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11
シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
21:12
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
21:13
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
21:14
イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 見ないで信じる者になれ、と復活のイエスは私たちに呼びかけます。
 イエスの復活を信じるとはイエスの呼びかけに応え従うことです。即ち、イエスの証人になること、イエスを宣教することです。具体的には、日々の生活においてイエスのように生きることです。弟子たちは処刑死したイエスと別れ日常の生業にもどってしまいました。その中で、イエスの呼びかけに耳を傾けないなら、復活したイエスと出会わなかったでしょう。死ぬまでこの世のユダヤ教律法観に縛られ不自由に暮らしたことでしょう。しかし、ペトロたちは、もう一度、イエスの呼びかけに従ったのでした。そこに、イエスとの生きた関わりが始まったのです。
 パウロにおいて信仰は「忠実であること」を意味するのです。つまり、「神に忠実である」こと、キリストの僕であることなのです。この意味でも、イエスの復活信仰とは、日々、イエスに忠実に従って生きることに他ならないのです。
 ところが、私たちはペトロらのように日々の暮らしに追われ、イエスの声にではなく「自己虫」の声に忠実になっているのです。
 「自己虫」からイエスの声、苦しむ人々の声に忠実な信仰を持ちましょう。
※加藤隆著「『新約聖書』の誕生」P.121、講談社選書メチエ


今週の一分間説教 Gospel on this week