「網の目の法則」

名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基


 イエスは『良き羊飼い』とヨハネ福音書(10章)は伝える。同章ではイエスを『門』とも語る。いずれも、イエスの言葉ではなく同福音書がイエスを譬えたのだ。他にも、『ことば』、『活ける水』、『光』、『天から降ったパン』等とのイエスの言葉も同様だ。

 そのように、同福音書がイエスを様々に譬えているのは、「見ないで、信じる者は幸い」とトマスが復活したイエスの体に直にふれなければ信じないと言ったことへの諭しのように、「心の目を開いて、聖書を悟る」ことでイエスの復活(神が立ち上がらせてくださった)の意味が分かるのだ、即ち、弟子たちは生前のイエスとの出会い、貧しい人たちとの関わり、立ち上がった人たちの姿、支配者層との対決、そして、十字架刑死の経緯を旧約聖書や、他からその意味を長期間必死に探究して、自分たちにとってイエスが誰で何をしたのかを伝統的な表象(例、「良き羊飼い」は古代オリエントの「理想的王」を指す。)を借りて理解してきたのだ。

 さて、イエスは歴史に名を残すためではなく、(盃をとりのぞいてください、何故、見捨てるのか)、ただ、目前で倒れて行くガリラヤの人たちの様に心痛め、誰もが生きていて良かったと言える人生になるはずと手を差し出しただけだ。何となれば、ガリラヤの豊かな大自然と両親の愛と教育に恵まれて成長したイエスは、それらを与えてくださった神への感謝と応答としての約束、即ち、「聖」(レビ記19章)になれとの呼びかけを両親の教育から学び、長じて、「隣人を自分と同じように大切にしなさい」(同)を生涯のモットーに旅を始めた。

 イエスの信念は、前述した『良き羊飼い』は「羊のために命を捨てる」と言った場面で、その思いを「だれもわたしからいのちを奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これはわたしが父から受けた掟である」(ヨハネ10・10-18)と表している。

 その思いを次から参照できる。《人は生きているのではなく「生かされている」のだ。なぜなら、人の命は無数の命と網目状に繋がっているから。(参照:「人間分子の関係、網の目の法則」 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』)》社会にある限り、自分とは網の目があってこそ生かされていると気づき、有難さを感謝できるなら、他者を生かす一つの目になれるのではないか。

 自分さへよければと他者との繋がりを断つなら、目が一つでも破られると同じように、自分も全体も崩壊してしまう。網の目の法則ではみなかけがえなく、平等な存在なのだ。ガリラヤに育ったイエスは、「空の鳥を見よ、野の花を見よ。蒔きもせず紡ぎもせず、天の父が養い、着せてくださる」(参照:マタイ6・25-34)神の意図される「誰もが大切にされ、互いに大切にし合う」網の目の世界に感謝していた。ところが、イエスの見たガリラヤは貧しい者が飢え、裸で、病気で倒れていた不平等、暴力、差別に満ちた世界でもあった。

 まさに、現代世界での格差の拡がり、弱い立場の人ほど命、人権を奪われている同じ様を今日の感染症パンデミックが一層明らかにした。その原因が国の指導者たちにあることも。彼らは網の目の世界ではなく、王を頂点とするヒエラルキー(階層構造)世界、他者の犠牲の上に生きている。彼らに対しては既に紀元前6世紀にまとめられた旧約聖書でも彼らを繰り返し批判し、神に立ち返るよう呼び掛けられている。(例、エゼキエル34章『災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない、…苛酷に群れを支配した。』

 先述のイエスを『良き羊飼い』と呼んだのは、それらの指導者との対比なのだ。ローマ帝国下で苦難を負わされた人たちには、イエスの姿に、網の目を受け留め、彼・彼女たちとパンを分け合い、荷を負い合い、十字架上まで同伴した人(参照:『友のために命をすてた』ヨハネ福15・13)、神の思いを伝えた人と映ったのだろう。

 ダルクにおける、薬物依存症者との共生は、まさに、網の目の生、感謝の生き方を示している。繋がった仲間がたまたま病み苦しんでいる姿を見たら、回復に手を貸したいと思うだろう。なぜなら、自分もその仲間から力をもらい回復する途上にあるからだ。

 どうぞ、みなさま、名古屋ダルクといっしょに感謝と喜びに生きましょう。日頃からのご理解とご協力を感謝いたします。


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