「スマホが手放せない」

名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基


 スマホを使うようになってから、もう 3 年になった。そもそも、ガラケーで十分だとおもっていたのを取 り換えたのは、通話料金がやけに高くなっていたのと 10 年使ったためあちこち傷がつき、充電の差込口が 破損したからだった。しかし、料金は思ったほど下がらず、むしろ、上がってしまった。通話はかけ放題だ が、ネット料金が嵩むためだった。案の定、不要不急必要の調べものや天気予報、テレビやユウチューブを 見たり、時刻表を確かめたり、と繁茂にネットを使う羽目になってしまった。ガラケーの時は、電車内で休 むことなくスマホ操作続けている乗客に眉をひそめていたくせに、まさか、自分がそのうちの一人になると は。

 さて、「便利さ、快適さ」は生活を楽にする反面、人を縛り、自滅させる。例えば、携帯電話、連絡はつ きやすくなったが、肌身離せないのものとなった。出かけるときは、まず、携帯を探し(これまた一苦労!)、 持ったことを確かめてからでないと出かけられない。ある種の依存症になっているのだ。他、進化する電化 製品、移動手段、等も一度手に入れると離せなくなるし、ないと何も出来ないのだ。だから、手に入れるた めには過労死までさせられるほど人間を物の奴隷にしている。言わば、「便利さ」は麻薬になるのだ。人が 生きるとはある意味、食欲、性欲、所有欲などの欲望を満たすことだ。しかも、社会は新たな欲望を際限な く産み続け、人間の欲望を増幅させている。人は無分別にそれを満たしたい、独占したいと渇望するように なる。世界の諸問題はそれに起因するのだろう。温暖化ストップの若者の声にもかかわらず、大人たちは経 済成長を求めるのだ。

 以前、紹介した聖書の『創世記 1〜11 章』には人間論が書かれている。2 章〜3 章の所謂『失楽園物語』では人間の「自由」を問題にしている。人はそもそも神から素晴らしい世界、食料に不自由しない園を与えられてそこを守り、耕すように委任された。ただし、善悪の知識の木からだけは食べるなとの神との約束があった。何故なら、食べると死ぬ、からであった。元来、世界は人が自由に生きて行くには十分な食糧、資源が備えられているはずだった。しかし、人はそれを満足しなかった。約束に背き「善悪の知識」の木から実を取って食べたのであった。「善悪の知識」とは「すべての知識」を言い、つまり、「全知」を手に入れ、「神、絶対者」になろうと自由を行使したのであった。人が「絶対者」になるとは、他者を奴隷にし、世界を独り占めにすることだ。人の「自由」は自然、他者と共に生きるための権利であって、独裁者になるため ではない。人が全治を手に入れ、神になり、欲望のすべてを満たそうとするとき、世界は破壊し、人間は滅びて行かざるを得ない。では、どうしたら、破滅から人間は救われるのか。聖書は言う、「欲望をコントロールする強い理性と感性、意思を育てろ」と。(罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません。口語訳 創世記4・7、)

 私たちやマスコミは薬物依存症者を容赦なく叩き非難するが、私たち自身の欲望依存症には背を向けて いるのではないか。欲望に捕らわれっぱなしだから。

 名古屋ダルクの「薬中からの回復」の道は他の依存症からの回復の道でもある。どうか。ダルクと一緒に 学び歩きませんか。死の淵にある、自然と人間の共生への回復の道を。

 今後とも、みなさまの暖かいご理解とご協力をいただけますようお願い申し上げます。



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