「蒔きもせず、紡ぎもせず」

名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基


 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」 (マタイによる福音書6・26)

 この言葉は、イエスが言ったと聖書に書かれている。福音書はイエスの語録集ではなく、出会った人の思いが書かれているから、著者はイエスの印象をその言葉で表しているかもしれない。それはともかく、イエスの生き様には通じるのではないか。イエスは神の前で生きた、あるいは、生きようとされた。

 しかし、イエスは何とノーテンキなんだろうか。今の世ではあり得ないことをよくも言ったなと苦笑いするばかり。何故なら、現代の日本社会ではあの国会議員や東京医科大学入試での女性差別に見られるように、「生産性」「成果」で人を評価するばかりで、「優生思想」により、差別、不平等がまかり通り、「働かざる者、食うべからず」と貧困や飢えを自己責任にしている。そんな日本社会で上記のイエスの発言は笑われるだけではないか。

 それでは、イエスの真意は何か。イエスにとって、神の前で生きること、すなわち、神との約束に従うことは、神が言った「すべての人は平等だ、大切にされなければならない」を生きることに他ならないのだ。彼が学んだ旧約聖書には弱者への配慮が随所に書かれている。レビ記にはその実行を「聖なる」ことの中味である、と言われているほどだ

 イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。

 ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。


 また、安息日遵守は奴隷を休ませるための人権回復のプログラムと言われる。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」(出エジプト記23・12)。

 つまり、旧約聖書には弱い立場の人を平等に遇するための指針があり、それを守らなければ「聖」にはなれない、なぜならば、神があなたがた自身を大切に思い、奴隷から引き上げ、土地も、財産も家族も与えられたから(参照:申命記8・17)、当然、あなたがたは弱い立場、寡婦、孤児、寄留者などの弱い立場の人たちを大切にするはずだ、との思想がある。イエスはそれを生真面目に生きたのだ。

 イエスの故郷パレスティナのガリラヤ地方は自然豊かで肥沃な土地だ。と言うのは、唯一雨の降る、即ち、神の恵が平等に与えられる所なのだ。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5・45) まさに、上記の言葉通りだ。しかし、農産物、海産物が豊富なのに飢え、病気、裸の極貧者ばかりいる。一体、それは何故だ、とイエスは思わざるを得なかっただろう。神の前に生きるはずのユダヤ人が、神の言葉をまもるなら、貧富の差がなくなるはずではないか。何故、自分達の腹を太らせるばかりで、弱い立場の人たちを搾取、抑圧し続けるのか。イエスは、可能な限り、弱い立場の人たちが、平等に遇されるよう、大切にした。しかし、エルサレムの支配者たちは心よく思わず、社会を混乱させるとして処刑した。

 上記の言葉の末尾には次の言葉で締めくくられている。「まず、神の国と義を求めよ」 つまり、「神の国」とは誰もが平等、自由、個性を受け入れられる状態のこと、その実現にはそのための指針を互いに従い続けるしかない、すなわち、神の義を求めなければならない、と言うのだ。「生産性」「成果」「業績」で人を評価する現代世界にあって、「蒔きもせず、紡ぎもせず」つまり、だれもが平等に、大切にされ、満腹する社会を求めることをキリスト者は率先しなければならないのではないか。キリスト者のはしくれである私がダルクと関わり続ける理由がそこにある。

 どうか、みなさま、ダルクへのご理解とご協力を引き続きいただきますようお願いします。

戻る