「タラントンの譬え」

名古屋ダルク後援会代表 竹谷 基


 聖書の福音書には『タラントンの譬え』(マタイ25・14-30)があり、主人から儲けるようにと預けられたお金を僕たちが決算の時、儲けた僕は褒められ、一銭も儲けず地中に隠していた僕は、酷く罰せられた、と言う話だ。それは「神の国」を象徴していると言う。私はこの譬えを以前には、素直に読んで神から誉められるには勤勉、努力して利益を上げることが必要で、怠けて成果を出さなければ罰を受けるのだなあと解していた。しかし、今回読み直したら、そんな意味ではないのではと疑問を感じた。つまり、神の評価が業績主義であるなら、この世の価値観と同じではないか。神も結局は世間と同じに人を評価するのか。もしそうならば、イエスのメッセージは常識的で陳腐でしかないのかと疑問が沸いたのだ。

 改めて、イエスの振る舞いを読み返した。イエスは社会から認められず、蔑視され、排斥された「律法を守らない貧しい人、病人、遊女、徴税人、外国人、等」と食事を共にし、酒を酌み交わし、手を伸ばし、声を掛けた。イエスはそれらの「小さくされた者」たちの人生を幸いなものしようとされ、それを阻害する社会の指導者たちに批判の声を上げた。それ故、指導者から社会秩序を乱す者としてローマ帝国から処刑されたのであった。そのイエスの姿勢は、旧約聖書以来の神の意志である「神の前では、誰もが自由、平等、独自な存在である」を忠実に守ろうとすることに他ならない。イエスの「神の国」は裁きではなく、許し合いの国なのだ。

 イエスの思いがそうであるならば、上記の『タラントンの譬え』の私の従来の解釈は間違っていたのだ。神の意志が「誰もが平等である」ならば、人を業績によって「良し悪し」と評価しないはずではないか。では、その譬え話しをどのように読んだらいいのか…、今の私には分からない。

 さて、「誰もが平等。」と神は仰るけれど、現実には不平等ではないか。能力、容姿、貧富の差など、歴然とある。例えば、重度の障碍者らはその為生きるのに大変な困難を強いられている。「平等」とは能力や経済力が同等と言うことなのか。かって、次のように教えられた。それは重度の障碍者が持った、「宇宙飛行士になりたい」との夢が叶えられることだ、と言う。その実現には何百、何千の人たちの理解と協力が必要となる。しかし、周りの人たちが喜んで手助けして、誰もの夢が叶えられることを「平等」と言うのだ。つまり、「平等を与えられる」のではなく「平等にする」ことではないか。神のその言葉は人にその実現に参画するよう促しているのではないか。

 名古屋ダルクは誰もが薬物依存症から回復し、一人ひとりの夢を叶えられるよう、同伴し続けています。皆さまのこれまでのご理解とご協力に真に感謝申し上げます。新しい年にも引き続きご支援くださいますよう、お願い申しあげます。

 みなさまに、良いクリスマスと新年が訪れますよう、お祈りいたします。



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