「景気回復」の影で

名古屋ダルク後援会 代表 竹谷 基


 今なお15万人以上の人々が避難生活を余儀なくされているにもかかわらず、「景気回復」の掛け声が喧しくなって、地震も原発事故もまるでなかったかのような気配が感じられます。そのせいか、復興や原発廃止は遅々として進んでいません。被災者は置き去りにされています。また、中国や北朝鮮の挑発に不安を煽り、好機到来とばかり軍事力強化や憲法改正が声高になっています。そのためか、沖縄県民の猛烈な反対のなかオスプレイ配備は強行されました。軍事予算増加に、反比例して、生活保護費等の社会福祉関係予算が削られて貧困化に拍車かけています。地震と原発事故直後は、惨禍を乗り越えて国の在り方を根本的に変えるチャンスと叫ばれましたけれど、元の木阿弥になり、何も変わらず、むしろ、自民党政権時代にもどっただけになりました。しかし、何故、そうなるのでしょうか。先の大戦での未曾有な犠牲者を出したことの反省に新憲法を制定したはずなのに、押し付けだとか、軍隊を持ち海外で米軍と一体になり戦争して普通の国になるんだと憲法改正しようとする政党を支持することは、どこから出てくるのか驚きを禁じえません。

 さて、このような状況のなか、先日、「沖縄の怒り―オスプレイ配備―」をテーマに学習会に参加しました。

 学習会では、構造的欠陥のオスプレイ強行配備はもとより、戦前戦後一貫している日本政府の沖縄に対する差別、搾取、犠牲の押し付けを説明されました。中でも、戦後67年経て、PTSDに苦しんでいる高齢者が増えてきているけれど、その苦渋な体験を後世に伝えるため聴き集めている活動を報告されました。犠牲者の声は再び同じ犠牲を繰り返さない気持ちを生じさせます。そして、日本政府は沖縄では信用されていないこと、東北と同じく中央から辺境と差別されている沖縄は搾取の対象として犠牲を強いられていることを学びました。

 イエスは私たちに「隣人を自分のように愛しなさい」と呼びかけています。それは旧約聖書が目指した人間観、即ち、「神の前では、人はだれでも自由、平等、独自な存在」を実現する指針としてイエスは語られました。旧約聖書の民であるヘブライ人という社会層は奴隷状態をよしとせず脱出しました(いわゆる出エジプト)。荒野の40年間の旅は、その過程を指し、旅を導くものはシナイ山で掲示さ
れた神の言葉、指針だと言うのが出エジプト記の物語です。同じく、旅する民である私たちキリスト者は他者を犠牲にしない平等な社会、誰もが大切にされる世界を目指すために、犠牲を強いられる隣人と出会わなければなりません。経済成長は必ず犠牲者を生むことを歴史が証明しています。世界史の帝国主義がそうでした。自国の経済利益のため他国を植民地にしたり、奴隷貿易という人道に反することを平気で行っていました。沖縄も日本にとって同じだったのです。戦争はじめ、水俣病、炭鉱閉山、原発、等と多くの犠牲者が作られ、私たちは多くの死と涙を見てきました。

 ダルクでリハビリに励む若者たちもまた、犠牲者ではないでしょうか。競争社会、管理社会、利器一辺倒の社会、その中で、勝ち抜いて行くことを強制される青少年たちが、生き辛さから逃れるため、薬物に頼ったのではないでしょうか。「薬中」は現代社会の犠牲者なのです。日本社会はそのようにして犠牲者を次から次へと生み出して行くのです。ダルクや他の犠牲者との出会いは、現代社会の在り方の批判的見方を持つことになります。そして、犠牲者の叫びから、二度と同じ悲劇が起きないようにと願はずにはおれません。

 どうか、みなさま、「薬中」や他の犠牲者を作り出さない社会になるよう、ご一緒に目指して行きませんか。道のりは途方もなく険しいですが、進んで行きましょう。いつも、ダルクへのご理解とご協力を感謝いたします。

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