「近い将来」と「近いうち」

ダルク後援会 代表 竹谷 基


 猛暑はまだ続いていますが、それでも、立秋からは朝晩涼しさを感じられようになりました。

 さて、多くの反対にもかかわらず、政府は大飯原発の再稼働を強行しました。その理由として猛暑になり消費電力が増え電力不足になること、それにより、経済活動が停滞し不況が深刻になって生活が苦しくなるからと国民を説得しました。そして、安全性については安全基準が満たされていること、責任を首相が取る、と。「原発事故に責任を取ります。」一見、勇ましく意気込みを感じさせ、感心させられる言葉ですが、フクシマの被害、チェルノブイリの現状を見るならば、誰も信じないし、あり得ないと誰もが思う空虚な言葉です。更にひどいのは、その空虚な言葉に担保を取ろうとする人ノマです。原発立地の地元の首長たちです。

 ということは、この国の政治家は決して責任を取ろうとしないのです。むしろ、原発立地の首長が再稼働反対と言えば「生命」への責任を取ることが出来るのです。再稼働容認は地球に対し、人類に対して責任は取れないのです。よく考えるならば、これまでも日本の指導者たちは責任を取っていません。今回の再稼働について、広瀬隆さんは、現政権は太平洋戦争末期の軍部・政治家と同じであると次のように指摘しています。

 自分たち権力の延命を図り終戦を引き延ばして、東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎での原爆投下と、甚大な犠牲者を出した。けれど誰も責任を取らなかった。それと同じ姿が現政権であると指摘しています。

 現政権の言葉の空虚さは目に余ります。マニフェストの約束違反、消費税上げなと約束したはずの増税、脱原発と言いながらの再稼働、笑い話になるような国会解散についての「近い将来」と「近いうち」の違い。自戒を込めて意味ある言葉を発したいとおもいます。

  「生きる」とは「応答すること」と言われます。その「応答する」は「責任」を意味します。旧約聖書では神と人間の関係を「契約」と表現し、責任を問われます。神の人への呼びかけに「応える」ことです。なかんずく、神からの呼びかけは、イエスによれば「隣人になれ」です。従って、キリスト者として生きることは「隣人」になることなのです。

 原発問題においても、私たちが「隣人になる」視点に立つことが必要です。原発の犠牲者の「隣人」になることです。そして、それは責任ある言動となるのです。

 薬物依存症者との関わりも同じです。人生の途上で出会った薬物依存症者の「隣人」になることは人生の責任を取ることになるのではないでしょうか。健康で豊かな人生を与えられた責任ではないでしょうか。

  引き続き、みなさまのタルクへのご理解ご協力をお願いいたします。

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