ダルクの仲間達


タカヤ

 ダルクにつながり3年がたち、今は本当に仲間のおかげでつながり続けることができたなと思えるようになりました。自立のためにアルバイトを始め、その中で自分が今までいかに社会から逃げてきたかということを感じ、今は日々キズつきながら、こうして自分は成長していけるんだと感じて、心の痛みから逃げるんではなく、痛みと向き合うこと、そして問題を解決していくことを心がけて行動しています。

 今は自分のいろいろな問題に気づかせてもらえるようになったダルクに感謝しています。最近すごく希望が出てきて夢に向かって突っ走っていきます。日々行動!!
カツオ

 こんにちは。アディクトのイソノカツオです。僕は、勉強が苦手でそんなに行きたくないくせに、家族が皆大学に進学しているからという理由で二年も無駄に浪人してまで無理して進学しました。進学して“もう二度と勉強なんてしなくていいんだ!”と念願の一人暮らしを始め、解放感に浸っていたら、酒を飲み続けるようになり、同時に食べ吐きも少しずつ始まりました。そしてなぜか違法カジノでバイトしていたので、そこで“エスやる?”と誘われ覚醒剤にハマリました。とんとん拍子に薬中人生が始まり、その後脱法ドラッグ、つなぎに酒、後半4年は処方薬と、28歳までは何も手に職もつかず、何一つ人生が進まぬまま、スネをかじり続けていた父親も亡くなり、母と兄に連れられて千葉ダルクに相談に行きました。“冷え性だし寒いのイヤだから沖縄なら行ってやってもいい”次の日から沖縄ダルクのプログラムが始まってました。久しぶりのしらふで、人間関係も沖縄ダルクのプログラムも超キツかったけど、2年と1ヶ月居続けて、円満退寮という形をとりました。シラフになれた、「仲間」という最高のものを知った、NAサービスも好きになった、琉球太鼓も大好きになった・・・が、それ止まりでした。沖縄のトロピカルビーチが一望できる高台の広いオーシャンビューなアパートに自立したものの、仕事も一人での回復も、みるみるキツくなっていき、NAのサービスも重荷になり、ミーティングもスポンサーシップもまったく使えず、4ヶ月で酒を飲み、ある日二日酔いで仕事もバックれたら、すべてがどうでもよくなり、死ぬことしか考えなくなり、全てを忘れるために毎日飲み続けるようになりました。10ヶ月もその生活を引っ張って(死ぬ気ねーだろって感じですが)2008年1月20日の朝、屋上から飛び降りようとしましたが、“高っけーな、怖いや、やめよう、どうしようかなぁ?”とキッチンのガス中毒で死ぬことを思いつき、ガスをシューっと充満させました。“ボーッとしてきたけど苦しくないなぁ”と思いながら横になっていて2時間くらい経って、ボーッとしたまま何も考えず習慣でタバコを吸おうとライターの火をつけた途端、‘ドン’というか‘パン’というか‘ズン’というものすごい音と衝撃が体に走りました。僕はあのオーシャンビューなアパートを爆破してしまいました。自分はその‘爆心地’にいて顔と腕にやけどを負い、救急車で3週間眠らされて集中治療を受け、心のケアで精神病院に移りました。その間‘激発物破裂罪’で逮捕されましたが、故意ではなく‘誤爆’だったことと、幸い人的被害が僕だけだったので、執行猶予で出られました(薬で逮捕されたことなかったのに)。手術から目覚めたときには本当にまったく体が動かせない。呼吸の仕方も、手足の動かし方も、食べ方も、歩き方も全て忘れてしまっている状態からリハビリを続けながらも“この先どうやって生きていこうか・・・”と絶望半分でいたところを、やはりNAや施設の仲間たした。その間‘激発物破裂罪’で逮捕されましたが、故意ではなく‘誤爆’だったことと、幸い人的被害が僕だけだったので、執行猶予で出られました(薬で逮捕されたことなかったのに)。手術から目覚めたときには本当にまったく体が動かせない。呼吸の仕方も、手足の動かし方も、食べ方も、歩き方も全て忘れてしまっている状態からリハビリを続けながらも“この先どうやって生きていこうか・・・”と絶望半分でいたところを、やはりNAや施設の仲間たした。その間‘激発物破裂罪’で逮捕されましたが、故意ではなく‘誤爆’だったことと、幸い人的被害が僕だけだったので、執行猶予で出られました(薬で逮捕されたことなかったのに)。手術から目覚めたときには本当にまったく体が動かせない。呼吸の仕方も、手足の動かし方も、食べ方も、歩き方も全て忘れてしまっている状態からリハビリを続けながらも“この先どうやって生きていこうか・・・”と絶望半分でいたところを、やはりNAや施設の仲間たち、とりわけスポンサーが度々見舞いに来てくれ、横浜ダルクへ行けるように、導いてくれました。沖縄の仲間に心から感謝しています。

 そして横浜で再びクリーンの回復が始まりました。横浜には10年以上毎日通所し続けている仲間が何人かいたり、そんな落ち着いた、わりと自由な雰囲気の中で僕は僕のペースでぐんぐん元気にさせてもらいました。琉球太鼓も再び始めさせてもらえて‘自分よりも上手く叩ける仲間を、自分で教え続けて、どんどん増やしていきたい、そして一緒に叩きたい’とステップ12みたいに考えるようになりました。(今でも僕よりカッコ良く叩ける仲間を探しています、いないので【笑】。)しかし、一年過ぎて女性の問題が出て“場所を変えてやるか?”という仲間の提案にしたがって、名古屋に4ヶ月前に来ました。(横浜のみんな、ありがとう。)ここのプログラムは、名城公園でのランニング、夜のバーベル、それも毎日ハードでタイトですが、それよりも‘全てをオープンにするミーティング’と‘強固なスポンサーシップ’そして「新しい行動」。施設生活を3年以上まじめに続けてきた僕でも、こりゃぁタイヘンだわと感じさせてくれます。でも大変なのは、本当の自分自身と今向き合っているからだと、ここでのプログラムは実感させてくれます。今日までで一番苦しかったのが、かかりつけ医に“ウチにはその薬はない”と抗うつ薬を一切切ったこと。それによってもともとの冬のうつが来ました。が、仲間とミーティングと提案で一日一日、乗り切れました。

 ここでやり続けて、将来のビジョンを持って今日一日、明るく前向きに変わり続けている仲間の姿を信じて、僕も今日一日、薬なしで新しい行動にベストを尽くします!
 
マサト 

  去年の9月に岐阜ダルクに行きました。1日3回のミーティングがあって、昼は運動がありました。人の話を聞くこと、自分の話をすること、走ることが
いやでした。言う事を聞くことができずに9月〜12月に2回、薬を使いました。今年も2月になって言うことを聞けないといってダルクを出ました。生活保護の金を持っていて10万円全部薬を使って遊びました。言うことを聞かなかった結果、ダルクの責任者の言うとおりになって、どうすることもできなくなって、名古屋ダルクに助けてください、とお願いして、今は名古屋ダルクにお世話になっています。
 
トモキ 

 4月宮古島トライアスロン出場!
名古屋ダルクで元気になりました。足が止まるまで行きます。
バイクとランまで行けるといいのですが!
実はあまり泳げない!そこが問題です。
 
ナマ 

 今年の抱負は“待”(あせらず地道に)にしました。あせらずという言葉に甘えてしばらくは走ることからも、仲間に話しかけることからも力を抜いて気持ち悪い日々が続いていましたが、最近その事に気づいて、またやり出したらようやく張りが出てきました。タバコをやめて10日が経ちます。
 
じゅんや

 薬がとまり始めて4年という月日が過ぎていきました。2006年の8月に名古屋ダルクでのリハビリが始まりました。仲間たちとミーティングをし、名城公園を走り、そして夜開かれる自助グループへと一緒に参加をしました。それが終わるとバーベルをし、仲間と一緒に銭湯に入り寝床へ戻るという毎日でした。薬を使ってる頃は毎日が孤独で、止めることもできずに何かに捕らわれる連続でした。そんな自分が「今日だけ」薬を使わずに生きていけ、寝床に戻る頃には体は疲れて頭の中は捕らわれから開放され安心して寝れる事にとても幸せを感じました。過去自分の力だけで一生懸命になって生きていこうとしましたが、どうにもうまく生きていけず、ダルクへ来て周りの仲間がやってることや「嫌なほうを選んでやってみる」と楽になることを感じていきました。いつも自分の周りには仲間たてがいて支えてくれました。海外で開かれる薬物依存症者たちの集いや、教会等のイベントへ参加させてもらい自分自身の居場所が少しずつ広がるうれしさもありました。昨年末に地域の運動会に参加させてもらい仲間とリレーや綱引きをして、今まで薬物依存症=厄介者と思ってた自分ですが、地域の方々に温かく受け入れていただき一緒にやれる嬉しさの様なものがありました。薬がとまりだしていく中で過去には想像もつかなかったことが起こり始めました。地域の方々との交流を始め、仕事を続けてること、自己責任を取ることや私事ですが、4月に結婚することになりました。先日、私のことを昔から知ってる仲間に「昔はよって誰に殴られたのかもわからずに道端で横になってた君がね〜」と言われ、一緒に喜んでくれました。そして今の自分に何が必要なのか?は自分自身の体験の中でよく知ってます。僕が今日薬をやめていられるのは、ダルク、自助グループ、仲間のおかげです。これらがなかったらきっと生きていけなかったはずです。今の自分にできることは、自分がしてもらったことを新しく繋がってきた人たちへ返していくことです。ダルクでのリハビリ期間は2年ほどでしたが、社会へ出てもダルクでやったことをやり続ける・・・そうした中で薬が止まっています。この文章を書いている間、僕はいろいろな人に支えてもらいながら生きてることばかりだと実感しています。今も普段何気なく会ってる仲間たちへ「ありがとう」の言葉が胸の中に出てきました。そういったことを忘れてしまいがちな自分なので、メッセージを書くと言うのが与えられたのかな?と思います。地域の方々や教会関係者の方、仲間、そして嫁さんにも感謝の心を持って「ありがとうございます」と伝えたいです。

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