対談 外山憲治さんに聞く U


聞き手 最初に東京に行かれた時は、すぐに戻っていらしたんですか?
外 山 近藤さんと会って元気になったんです、それで、半年くらいで戻ってきました。
当時、僕は名古屋に帰ってきて、AAのミーティングを利用しながら、宅配便の会社で運転手をしていました。で、その後一年半くらい経った時に東京ダルクができたんです。
近藤さんがダルクを作った理由は、当時シンナー少年が来ていて、僕の時とおんなじように彼の部屋に連れ込んだんです。そしたら、メリノール・レジデンスの他の神父が怒っちゃった、あまりにも強烈で。
けんかになったんです。怒って近藤さんが「じゃあ」っていうことで、近くに古〜い二階建てのアパートを借りて、そこが東京ダルクになったんです。
僕は元気になって名古屋に帰った後もいろいろ交流があったんですね。
で、東京ダルクを作る準備をしている時、休みになると東京に行ってワゴン車かなんかを使って、あちこちの救世軍のバザーとか行って、家具などをできたばっかりのダルクに運び入れるような手伝いをしました。
ゴーが出て、東京ダルクは誕生しましたが、二ヵ月半くらいで近藤さんは疲れちゃったんです。
集まってくる人がめっちゃくっちゃですから、ほとんどやくざのおじさんなわけです。
刺青があって、小指が無くて、夜中に兄弟仁義かなんか歌って、裸でそこらへんウロウロして、下町の民家が密集してる所ですから、世間体とかいろいろあったんです。
で、僕に電話が掛かってきて「じゃあ、ケン、手伝ってくれ」と、このようなことで僕は東京ダルクで働き始めたんですね。
1年半して又東京に行かれて、それから何年東京にいらしたのですか?
3年半いました、彼と一緒に。東京ダルクでず〜っと寝泊りして。
初期の頃の東京ダルクのエピソードをお聞かせ下さい。
同じ家に住んで、近藤さんと僕、現役の新宿の暴力団員、イチジョウさんという背中に遠山金四郎の桜吹雪が彫ってあるようなおじさん、シンナー少年のタケオちゃんていう五人くらいで細々と共同生活してたんです。
それは、すごくアットホームないい時代でしたね。でも、いっぱい問題もありました。お金が無い、理解されない、そんな奴集めてどうするんだとかね。けれど、やっと薬中の集まれる場所ができたということです。
だから、目指すのは自立で、止めさせる場所だけにはしない。取り上げて止めさせる場所ではなくて、一緒に生活することで自立しようと、そういう場所がダルクなんだって、いろんなことが有って、ダルクのスタイルが決っていったんですね。
やることは唯、ミーティングに出るだけ、カウンセラーはいない、薬を使ってようが、使っていまいが、それは彼らの問題で、俺達はしっかりと自分の信じてるミーティングに出て、その姿を見せ続けようと、こういうことなんです。「止めろ」とか「お前はこうするべきだ」とか、そういうことはいっさい言わないでおこうと、ともかくミーティング行くことで、よくなると。そうやって来ましたね。そして三割の人が元気になりました。
妖怪館とかいうのは、その時代のことですか?
妖怪が潜んでる、座敷わらしみたいな奴も居ました、二階の自分の部屋にず〜っと正座しているような人もいました。当時入寮してた人は二十人くらいに増えていたんですが、入寮者が三人くらい殺人事件を起こして、裁判になっているんです。今でも、刑務所に入っているんですけど、そういう人達が集まっていたんですよ。
だから、よく刃物が出てきて、夏なんか、暑いだけでおかしくなる。なるのが東京ダルクで、毎晩のように補導されました。三階から跳び降りた人もいました、突然カーテンに火付けようと思ってライターを近づけるとか、布団がぼうぼう燃え始めていたりした事もあった。取り上げた刃物を自分の布団の下に隠して寝ていたんですけど、七本くらい有りましたね。僕はだんだん、おかしくなってって、頭の横に金属バットを立てかけて、寝ているという感じでした。
その人達は薬がまだ止まってなくって、使いつつダルクに来ていたわけですね?
そうですね。と言うのは、ダルクはさっき言ったとおり、自立すると。使っていても、当時は居ても良かったんです。
今はだめですよね。
今は、僕は使っている人は追い出すことにしましたけど。
当時は行き場が無いものですから、皆そこに置いていくんですよ。家族も、連れてきて置いてかないと大変ですから。だから、家族の混乱を肩代わりする場所。ようするにダルクは薬物依存リハビリテェーションセンターで、リハビリをする場所でスタートしたんですが、解毒センターもやらなきゃいけなくなった。
「おはようジャーナル」なんかでも取り上げられて、放送が日本中に流れると、全国から殺到したんです。だから、家族の相談もしなきゃいけない、あるいは、当時の事ですから、病院も行政も、薬物依存に回復するための道のりがあるのかなんていうことは、まったく分かっていない時代でしたから、専門家もいっぱい視察に来るわけです。
そうすると、案内して、説明する事もやらなきゃいけませんでしたし、NHKに出ると、やっぱセンセイショナルな感じがするじゃないですか、そうすると民放が押し寄せる。
だから、近藤さんはそういう事に忙しくなってくるんです。結局、現場は僕がやることになった。
いいコンビだったんです。そう抜群の、阿吽の呼吸でやってきたんだなって思いますね、東京の時代はね。
その、「東京ダルク」という名称は、いつ頃ついたのですか?
近藤さんがつくったときにもう、「東京ダルク」と決めました。
おもしろかったですね、今思えば。大変な場所だったかもわかりませんけど、僕がやり直すためには、すごく、いい場所でしたね。僕はまあ、お坊ちゃんで育ちましてねえ、長男で、別にお金もありましたし、そういう意味では、東京ダルクの1日2000円の生活がとても、役に立ちました。覚悟も育ったんです。刃物が出てきたり、脅されたり、「明日は来ないかも分からない」って思いましたけど。その前の、生き方のスタイルは、将来を見据えて今日なんかやるということを教えられてたわけですが、そんなことはもう、東京ダルクでは通用しませんでしたから。「明日俺は生きてないかもしれない。だから今日、生きている間にできることやっていかなきゃしょうがないな」って思うようになりました。そういう意味では、「今日だけ」のスタイルが、体に染み込んでいったんでしょうね。
AAとかNAが“Just for today”とかいう…?
ええ。キャッチフレーズ。もう、「今日だけやめよう」。
106カ国で今、NAが開かれているんですが、その自助グループのスローガン。
外山さん、ダルクってアメリカに最初からあったんでしょう?
アメリカにはねえ、なかった。ダルクは日本の施設なんですが、NAという、アメリカにあった薬物依存者の自助グループが日本にあって、それをもとにダルクができた。
12のステップやなんかは、そこからもってきた…?
そうです。12のステップにしたがって生きることをやりましょうと、これがダルクの提案なわけです。だからダルクの目的は、要するにNAに、良質なNAメンバーをつくることですね。
だから、NAで治そう。ダルクで治らないから、NAにつなげようということです。
名古屋ダルク立ち上げのときも、「今日だけ」でつくった。(笑)
(次回に続く)

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