ああ、勘違い!!

ダルク後援会会長 竹谷 基


 うららかな陽が窓から射している朝、もう春かと薄着して出掛ければ、あにはからんや、冷たい風、気がつくのが遅かったと後悔する。かと思えば、バレンタインにさる女性からチョコをいただいた、さては、気があるのかとホワイトデーに奮発のお返し、ところが、その後はなしのつぶて、気がつけば義理チョコかと…。まあ、人生には勘違いが山ほど、性懲りもなく、勘違いをくりかえしてはしっぺ返しを食らう。
人は誰もが人生の幸せを願う。しかし、勘違いしていると、何故か生き辛い、生き苦しい。それを打破しようと何かに頼る、占い、宗教、オカルトなど。私が頼るのは聖書、なかでも、福音書、というのは、そこでイエスに出会えるからだ。イエスは気づかせてくれる、生き辛くさせている勘違いを。

 今日は、それをヨハネ福音書のあるエピソードから見てみたい。

ヨハネ福音書4・5−42
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。(以下、略)

 イエスは出会う人々に幸いを運んでくる。

 女性の人生は何か生きづらかった。来る日も来る日も重労働である水汲みをすることは彼女には非常に大きな苦痛であった。水汲みさえなければ、もっと私の人生は楽になるのにと思っていた。女性は苛立ちながら今日も水汲みに来た。

 イエスは重々しい足取りの彼女を見かけて声をかけた。彼女はただでさえ鬱陶しいのにと、関わらないようにした。しかし、めげずに、イエスは話しかけた、彼女の鬱陶しさを晴らせたらと。そして、ついに、彼女は叫んだ、水汲みに来なくてもいいようにしてください、と。

 ところが、イエスはなおも話しかけた。というのは、女性の顔が晴れなかったからだ。彼女はあれほど望んでいた水汲みの重労働から解放されるのに、なぜか、体の奥にはまだ大きな刺が残っているのだった。

 彼女は気がついた。私の人生がこんなにも生きぐるしいのは水汲みのせいではなかったのだ。私の願いは生きづらいと呻吟している私を、ありのままのこの私を誰かに受け止めてほしかった、甘えたかったのだ。しかし、周りの誰もそうではなかった。口を開けば、おまえが悪い、努力しろ、我慢しろ、と突き放すばかりだった。

 ところが、この方はちがった。私をありのまま、まるごと包んでくれたのだ。

 彼女は軽くなった。そして、人々のところへ飛んでいった。  人生は辛くないのだ、と人々に伝えるために。

 ダルクもまた勘違いに気づかせてくれる所だ。
 どうか、みなさんも、ダルクと出会って軽やかに人生を楽しみませんか。


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