《名古屋ダルク家族相談室レポート》

名古屋ダルクとの出会い

精神保健福祉士 繁原 賢吉


 外山さんが薬の問題でどうにもならずに 東京に向かったという風の噂を私が聞いたのは1984年ごろの冬のころだったと思う。 後で分かったことであるが この時が日本ダルク創設者の近藤恒夫氏との出会いであった。
 
 二度目は 回復して名古屋でダルクをはじめたという話を聞いたのが 精神科ソーシャル・ワーカーの集まりだった。彼はその時も七・五・三スタイルであった。セデスを一日に何十錠も服用するというタマゲタ話だった。しかし何故か私の心に響くものがあった。

 三度目は ある専門職の方から「名古屋ダルクの支援をしませんか」と提案があり 名古屋ダルクで外山さんと直接に話をする機会となったのは2001年の夏のことだった。“気難しくて頑固そうなスタッフ”という私の先入観はその場ですぐ消えた。家族相談室の開設の提案に快く賛同していただいた。「応援するよ!」とも声をかけていただいた。

 その後 しばしばダルクを訪問するたびに体験することがある。現在の代表の柴さんや外山さんとの何気ない話のなかに いつも響くものがある。こちらが知りたがっていることを見抜いてか お二人に会うたびにそれとなく助言をいただく。 不思議と元気になる。どうやらそれは自分の不器用な生きかたに関係している問題のようだと気づく。時間がたつにつれ感謝の気持ちが湧いてくる。

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