人生読本「薬に病める若者と歩む」(2)

1994年12月20日放送

名古屋ダルク代表 外山憲治


 「人生読本です。昨日から3回にわたって名古屋市にある薬物依存者のための民間リハビリ施設代表、外山憲治さんに「薬に病める若者」と題してお話しいただいています。外山さんは1950年愛知県生まれ、かつて20年近く薬物依存者だった経験を生かし集団合宿とミーティングが中心の治療によって薬物から立ち直りをめざすダルク(DRUG ADDICTION REHABILITATION CENTER)を設立し、5年間その代表をつとめてきました。今日は、外山さんに薬物に依存するようになっていった少年時代の経験について語っていただきます。」


 うちの家族は、父親と母親と男の子が2人でボクは長男です。母親は5人兄弟の長女で近くに母親のお母さんがいました。長女の長男ですから家族にとって初孫でして、非常に喜びのうちにボクが生まれてきたということです。

 父親はサラリーマンで、母親は結婚前に学校の先生をやってて………ちょうど焼け野原から豊かに幸せになろうという感じで………父親は働きに出て、戦争で鉄砲を撃ってた人が今度は背広を着て会社にいく行くようになったんですネ。

 母親というと、父親を一生懸命支えながらボク達2人を育てたわけですよネ。そして、段々少しずつ豊かになってきましてネ。洗濯機とかテレビとかも家にあって、テーブルで食事をするようになって………。

 父親は、仕事が忙しいものですから朝早く出ていって、夜おそく帰ってくると………当然母親は、家の中で家電製品が普及してきて家事労働から少しずつ開放されてきて、どこに目が向くかというと子供達で………。

まわりがいい学校に入って、いい会社に入るという環境の中にいて、母親も当然、それにのっかるようになって、子供たちに「勉強しなさい!」という………こんなのは当然のことで、そういう日本人の一般的な普通の家庭の母親と子供達の結び付きや距離感が近くなっていったというのはごく当たり前のことだとボクは思うんですネ。ボクは長男でしたから、いつも良い子の役をやらなければいけないと思い、なかなか自分の「俺はこうしたいんだ」と言うことが言えない子供でした。

 小学生の頃はなるべく母親の期待に応えようと行動していた節がありますネ。それまで凄く自分が不自由で、高校進学の時期に薬が入ってきたわけですが、そこで「これが本当の俺だ」みたいなものを感じました。だから、本当の自分―自分らしい自分でありたい―ということがあったのかもしれませんが、だんだん薬物に依存していったようです。

 薬に出会ってあるところで豹変―180度変わっちゃうわけですよネ。母親は「何故?」と考えるのも当然で、半狂乱になってボクの軌道修正を計るわけですが、ますますボクはエスカレートしていく………母親があせればあせるほどボクは爆発したということで、外山家全員が突然メチャクチャになってしまうみたいな………依存症というのは家族全体の病気と言われていて、一人依存症の人がいると他の家族にすごい核エネルギーの死の灰みたいなものをまき散らし強い悪影響を与えるみたいな所があるように思えるんですが、「家族全体を破壊してしまう」と思いますネ。うちも全く同じだったということです。

 よく、うちのガラスはデパートの包装紙の継ぎ当てがあちこちにしてある………クスリを使って暴れますし、ガラスは割りますし、大声をはり上げますし………。家族は世間体があるわけで、ひた隠しに隠そうとするわけですが、そのことがもっとエスカレートしていくというか………だから、父親も母親もボクも弟も途方に暮れていた………「どうしたらいいか分からない!」 今みたいに、適切な回復への道のりみたいなものがどこにもないわけですからどうしていいかわからないで家族は孤立していく、「どこにも相談にいけない!」そういうことだったんですネ。回復していくための相談窓口もなかったし、あるいは病院に行ってもわからなかっただろうしネ。母親が本当に困ってしまうというのが現実ですネ。

 ともかく、便利になりすぎて、子供が1人か2人で母親が子供の方に向くのがあたりまえみたいなロケーションがあったと思いますネ。ごくみんな当たり前なことをして普通に生きてたらこんなことになってしまったということはよく思います。

つづく


「いやしを求めて」目次に戻る