5周年感謝の集い

進行 外山憲治


竹谷神父
 本日は、みなさま暑い中、また遠路から私たちダルク感謝の集いに来て下さり、ありがとうございました。ダルクは1989年の開設以来5年がたちました。その5年前私が名古屋に戻ってきたときですが、そのとき、外山さんに出会って、ダルクの来月の家賃が払えないから協力してほしいと頼まれたのが、ダルクとの関わりのきっかけでした。後援会代表に祭りあげられて、みなさまにお金の無心をするはめになりました。ダルクでは年間約600万円のお金が必要です。その600万円のお金がみんな一人一人のあるいは教会からの献金なんですね。名古屋市とか愛知県とか国からは一銭も来ていません。本当にみんなのささやかな善意が集まって活動してるわけです。5年たってますので、単純計算すると3,000万円近く、みんなの善意で来ています。また、今年もそろそろお金がなくなって来てるんですけども、みなさんの応援と、11月には、去年もしましたがチャリティーコンサートもしたいと思っています。来年の2月春先にはバザーもしたいと思っています。
 みなさん、ほとんど今までは、私も、みなさんも全然顔を会わせたこともないんですね。いつも、お手紙を出して金をくれということばかりでしたので、今日はせめて、お顔を拝見してもっともっと近くなって、また、ダルクの人もたくさん今日見えてますので、ダルクの人から今どういう生活をしているかということをお聞きして、これからもみなさんの支え、協力をお願いしたいと思います。
 それでは、早速ですけれども、ダルクの人から今までの歩み、生活、回復した道をお聞きしたいと思います。では、外山さんお願いいたします。
 
外山
 えーと、何から話していいかわかりませんが、まず、ダルクの外山といいます。薬物依存症の重症の、ダルクにいるということは僕がきっと一番重症だということです。
 神父様がダルクの初めのときのことを話されましたが、東京のダルクがですね、薬物依存症の人たちでもうあふれてまして、次の器が必要だったんですねえ、僕がそろそろ自立する時期でした。薬物依存症イコールどうにもならない人たちというイメージが当時ありまして、非常に、「勝手に薬使っててね、なんでそんな奴等を応援しなくちゃいけないんだ」とか、僕自身がそう思いましたから、僕以外の人たちも、当然そう思ったわけでね、東京で働いてまして名古屋へ帰ってきたんです。東京の創立者がいましてね、近藤恒夫っていうんですが、彼がせっかくだから東京で培った活動をあなた名古屋でやったらどうかみたいなご提案があったわけですね、ぼくも、誰かのお役に立ちたいみたいな部分がありまして、そして、そのことで自分のことを肯定しながら生きれたら、こんな良いことはないということで始まっていきました。
 この地域に帰ってきましても、人脈はありませんでした。とりえあず、借りるだけ器を借りようということをやったわけですね。50万もらいまして、北区の長田町というところに古いアバラ家を借りたわけです。そのときにお願いしに行くところがわかりません。どこに行ったら良いのか、何をしたら良いのか、運営するためには、どうするのかということでした。当時、薬の止まらない人がもう2、3人ダルクにいましたし、青い顔しながら、ある修道会の修道女に会いに行ったんですね、彼女が「じゃあ何かできることを」ということで、まあ、空き缶を拾って黒いごみ袋の中に入れて、それをお金に換えて、これを運営の足しにしてくださいという、そういう彼女との出会いから、広がっていったという感じがします。
 司教様にもね、お願いに来たんですよね、そしたら、見事に断られまして、で、後でこの話というのは色々と僕の中でわだかまってね、なんで薬中ばっかり、そんなにいじめるんだとね。アルコール依存症の人はサポートできて、病気が同じなのに薬物依存症はなぜできないんだみたいな、怒り、憤りがあったんですがね、その憤りが役に立ったんですよね。後になって、やっぱり司教様というのは、偉い人ですね。あるところで会ったときに、あの朝日福祉賞かなんか授賞された司教様がですよ、「いや、外山さんあのときは、非常に申し訳なかったと思ってる」と、この薬中の僕に頭を下げられたという後日談があるんですがね。でも、きっと当時振り返りますと、司教様もアルコール依存症のマックという施設がありましたから、そのお金集めだけでも大変でね、とても、薬物依存者のためには、自分の身を削って私たちのために何かやるなんていうひまはなかったんだろうという気がします。
 で、まあ、その憤りみたいなものがバネになりまして、あっちこっち行ったわけですね。そしたら、竹谷神父様が引っ掛かってきた。……(笑い)……ダルクというところはぶっちゃけたことを話しますから、非常にひんしゅくをかうときが多くて、いわば友達みたいなもんですから僕にとっては。「南山教会という立派な教会に変な神父がいる」と、そういう話をカテキスタ会の修道女にいると聞いて食らいつくように、行ったわけです。そしたら、名古屋ダルクの活動というのは非常に貧しくて、非常にささやかでという、最初そうでした。神父様はですよ、ご自分のミサが終わった後で、教会の前にサンマを並べましてね、神父がミサの後で教会の前でサンマを売るわけですよ。で、南山教会というのはああいう高級住宅街みたいなところにありますから、非常に異質な、信者さんにとっては、よくわからない神父様だったわけですよね。でもそのサンマを神父様が売ってですよ、それがダルクの初期の運営費なんかになってたわけです。神父様はひんしゅくを買いながら、何かきっとやったんでしょうね。後で、ちらっとそんなこと聞いたこともありますけど、僕から言わせれば、「これが神父だ」ということだったんですよね。そんな出会いがありました。
 そして後はそれからですね、車であっちこっち押切教会とか主税町教会、熱田教会、桑名教会ここら辺の教会全部、神父様に会いに行ってサポートしてくださいというのをやったわけですよね。ところが、東京とか横浜の感じが僕の中にありましたから、誰でもすぐサポートしてくれるもんだと思ってた。ところが、そんななまやさしい地域じゃなかったということです。
 そして、不思議なことにそれから5年が過ぎていきました。で、今日があります。ぼくも、そういう意味ではだいぶ解放されて、今まで運営するなんていうことはどういうことなのかわかりませんでしたし、当時、僕がわかっていたのは、薬物依存者の薬をどうやって止めるかということだけは一つわかってたことですよね。それはわかってましたけど、後のあんなささやかな施設を運営していくのも、大変なことなんだなあというのが、つくづくわかるようになって、そして、こんなふうに変貌していきました、ジゴロのように。これが、僕の持味で真夏に蝶ネクタイなどしめて神父様に「今日は七五三ですか?」。そのとおりです。これがぼくの役割でもあります。役に立っているなあと思いますねえ。今時、こんな奴はいなくて、で、でも、こういうことが僕のメッセージなわけです。通常、そこら辺にたくさんいる人と同じことをやっていたんじゃなんか自己主張できなくて、こっち振り向いてもらえなくてね、やっぱこっち振り向いてもらうためには、何か僕がやらなきゃならなかった。ヒゲ伸ばしました。蝶ネクタイしめるようになりました。二つしかないジャケットの一つを着るようになりました。胸になんか飾りをいっぱいつけて気取ってます。まあ、これが俺だなということです。
 ダルクが続いたというのは奇跡なんですね、ダルクに集まって来た人たちが薬が止まっているというのも奇跡です。本当に重症なケースばっかりでしたね。いつもダルクに通ってくる人で、うちの冷蔵庫の中を見て閉めて、そのまま帰るという日が一年近く続いた人がいました。あるいは精神病院に10年もいなければいけない人がいました。あるいは、背中の桜吹雪じゃないですが、絵が気になってみたいな人とかね。刑務所出て、紙袋二つで、夏も過ぎようかというある日に突然あらわれて、妄想をべらべらべらべら三時間近く話す人とか、どう見ても、死体置き場にいて良い人たちが集まってきました。そういう人たちがなんか不思議なことにここに今日こうやって集まって会場の準備をして、コーヒーをたてて、今日来てくださったダルクを支えて下さった方々に何かができる。これはどう考えても不思議です。
 そういう中でですね、今日は遠く福井から、大阪から、京都から、横浜から梅雨の合間をうっとおしい中を、挨拶が前後しましたけど、本当に心からお礼を申し上げます。一番最初に紹介したい人がいます。久しぶりに顔を見たんですが、何年か前の夏に福井から来た人がいます。これがもう重症の極みですね。僕もとってもじゃないけどこの人がこういうふうに変わっていくなんてことは思ってもみませんでした。まあ、すぐ刑務所に行くだろうなって思ってました、当時。いつも一人笑いが続いていました。僕と話しているときは、なんかちゃんと会話ができるんですがね。なんか話さなくなると一人で宙を眺めながらニコニコニコニコ笑っている。そういう有様でした。で、どうしようもないなあと思いながら、なんかプログラムみたいなことをやりましてね。ミーティングに行ったり、いろんなところに遊びに行ったりですね。体力使ったりしながら、不思議なことに11月頃になって近くのスーパーに働きに出るようになって、そして、12月31日の日に自分の雪深い福井に帰ったんですよね。これは、非常に感動的なことでした。あの、年も押し詰まった12月31日の日に、彼はシンナーも使わないで、やさしい両親が待つ、雪深い故郷に帰ったと。それだけで、涙が出そうになりましたね、僕は。で、それから3年たちました。じゃあ、福井の前川さん。後、少ししたらどうぞ、お願いします。で、彼は今もすごい問題がたくさんあります。裁判抱えています。裁判やりながら、福井に帰ると有名人ですから。そういう中で止めつづけなきゃいけないことですよね。いつも就職してもですね、事件のことがあると、きっと止めてくれとか言われるんでしょうね。そういう部分で非常に仕事が続かないとかいって悩んでますが、どうでしょうか?それでは前川さんどうぞ。
 
前川
 あ、どうも今日は。福井から来ました、前川と申します。今から3年前の夏にちょうどダルクに入寮してまして、今、憲さんの紹介のとおり、大晦日に福井へ帰りました。それから、色々なことをやったんですねえ。仕事もしたし、さるキリスト教ですけど、宗教の勉強しようとして今も神父さんと一緒に教会で勉強したり、あるいは、高等学校を僕は中退しましたので、高校へ再入学して今、3年生になりました。後、福井にNA(ナルコティック・アノニマス=薬物依存症の仲間たちの集い)を作りました。NAといってもたぶん理解が薄いと思いますけど、ダルクの夜のミーティング版を作ったんですけど、メンバーがなかなか集まらなくて、今、二人でミーティングをやっています。火曜日と木曜日にミーティングをするんですけれども、火曜日が二人、木曜日はアルコール中毒者も兼ねて6、7名でミーティングやっています。
 3年前にダルクに入寮したときには、本当に宙を見つめてくすくす笑ったり、後、対人恐怖症があったんですかねえ、人と付き合うのがへたくそで、未だにそうなんですけども、人の思惑が気になって、孤立してしまうというか、僕の病気なんですけども、あのー、人との付き合いがへたくそな自分がありますねえ。で、ダルク退寮してから一時期シンナーに溺れた時期があります。あのー、一生懸命プログラムやって今度こそ、大丈夫だと思ったんですけども、薬物の誘惑はそれ以上のもので、僕は再びシンナーに溺れました。でも、その時には周りの人の援助で僕はダルク再入寮もなしに、何とか立ち直ることができて、今、ドラッグ、アルコール、たばこも抜きで一年半を迎えてます。ダルクのプログラムもそうですけど、一番大切なことは何かというと、やっぱり人々の愛ではないかと、僕は思っています。
 あのー、僕は今裁判を抱えているんですけども、裁判は殺人事件です。僕は今から8年前、21才の時に殺人事件の犯人として警察に逮捕されました。それから、福井刑務所の拘置区の中で独房に入れられて三年半裁判を受けて、三年半後に地方裁判所で無罪判決を受けました。無罪判決の後で僕は釈放されましたけども、検察側が名古屋高等裁判所のほうに控訴して未だに、裁判は続いています。で、ここ名古屋には昨日来たんですけども、その前日、一昨日僕はまた、裁判のため金沢へ行って、裁判を受けてきました。証人尋問はすべて終了して、次回に論告求刑と最終弁論をやって、その次に判決がおります。でも僕は、この殺人事件は、本当に僕じゃないんですねえ。人殺ししてもおかしくない人格とか、問題とかもってましたけど、この事件に関しては本当に僕は違います。今から、僕がダルクにつながったのは東京ダルクができた8年前でした。僕は本当に人格が崩壊していました。歯も磨かず、風呂も入らず、下着も換えず、ヒゲもぼうぼう。人と話す言葉を失っていましたね。今、ここにいる憲さん、外山さん。彼も言葉を失っていました。僕と同じでしたね。今、憲さんが僕を紹介してくれたように、彼も同じ問題を持っていたんですね。でも、ここまですごいリーダー性発揮して、ダルク作って大きくした、何か素晴らしいものを、僕も彼のようになれたら良いなあっていう僕も願望があって。
 あの、先日新聞を読んでいましたら、福井の地方版ですけども、あのー、僕今29才です。通信制の高校は、後1年あるんですねえ。4年制ですから、新聞読んでいたら、来年、今年度から県警察官の採用年齢が3つ上がって30才になったんですねえ。で、来年僕30で高校卒業ですから、一度受けて見ようかなって思うんですねえ。これ、狂った考えなんですけども、僕前科あるんですねえ。前科2犯あるんです。でもこれ罰金刑なんです。で、公務員というのは罰金刑まではなれるんですねえ。それ以上の刑に服するともう、公務員にはなれないんですよ。で、これ最後のチャンスかなあ、神が与えてくれたチャンスかなあって妄想で考えてまして。僕、小さい頃から白バイ警察官にあこがれていたんですねえ。あのう、アメリカでハーレー・ダビッドソン乗りながらヒゲをたくわえてサングラスかけて、あのースピード違反取り締まるみたいな僕は幼少の頃からあこがれていて、警察官になりたいなあって思ってたんですねえ。僕も若いとき、オートバイに乗るのが好きで、そういうのになんかのめりこんだ時期があったんですけども不思議と警察官になりたいなっていう夢は漠然と持ってたんですよ。で、年齢制限が公務員の場合ありますから、警察官とかね、あのう、普通は26位までなんですよねえ。僕はもう駄目だなって思っていたんですよねえ。ましてや、裁判のこともあるし。で、裁判は今年中には判決がおりそうです。無罪判決がおりそうです。で、もう後は僕を悩ませるものは何もないんですねえ。もう受けるその1年しかないです。もう後ねえ世間的な批判とか考えていたら、とても何もできないっていうか、一度このチャンス生かすために受けてみようかなって思っています。来年、受かる受からんは別として、“No pains, No gains.”っていう僕の好きな言葉があって、「労なくして得るものなし」っていう諺なんですけど、一度やってみようかなって思っています。
 僕は、まだ人間的に未熟です。人の悪口を言うし、結婚だってまだしてないし。彼女いない歴これで10年なんですね。あの、これ自慢でもなんでもないんですけど、丁度17、8の頃付き合っていた女の子がいて、初恋がちょっと遅かったんですねえ。中学3年のときで好きな女の子に打ち明けて、普通だったら僕ぐれてましたから手を出しても、おかしくなかったんですけど、僕、喫茶店でその女の子の手を握って、握るのが精一杯で、それ以上のことなにもできなくて、それで僕の初恋はあっけなく終わってしまって結局自然消滅ってやつなんですねえ。それからまた、二人目の女の子と付き合って、僕、二人しかないんですねえ。付き合った経験が、その二人目の女の子とはまあ、よくある恋愛してたんですけど、17、8、そして少年院とか入退院繰り返してて、19の時に帰って来たときにはとことん、人格が崩壊してまして、彼女にも愛想つかされてましてそれ以来彼女と呼べる女性との付き合いがないんですねえ。で、それはまあいいんですけど、この人格的未熟な部分をどんどんと開花させて成熟させたいなって思ってるんですけども。やっぱりプログラムはもちろん、大切です。ステップとかねえ、成長していくためには課題が大切ですから、それも大切なんですけども、もっと本質的な大切なものは何かというと、人々から愛される、そして人々を愛するその、愛じゃないかなって思うんですよねえ、で、僕は偏っている人間ですけども、とにかく人を嫌いにならないでおこうっていうふうに心掛けているんですよ。あのー、色んな人いますから、ムシ好かんなあとか、うまくやりたいんやけど、こちらからしゃべるのしゃくにさわるしなあとか、とらわれること色々ありますけども、とにかくその人嫌いにならないでおこうっていうのが僕のモットーなんですよね。だから、これからもいろんな人と付き合っていくと思うんですけど、まだ未熟な部分を色んな人に揉まれて頑張っていきたいなと思っています。で、最後になりますけども、ここで皆さんと会えたのも、なにかの縁だと思います。こういう縁を大切にしていきたいなと思ってます。ありがとうございました。
 
外山
 どうもありがとうございました。えーと、彼の話を聞いてて生真面目そのものですよね。やってることと、考えていることが、ひどく離れている。こういうことです。本当は薬物依存者はみんなすごい真面目で、生真面目で非常に良い人たちです。次に、実際に名古屋ダルクで毎日のようにプログラムをやってる人に話しもらいたいと思います。じゃあボーダー。
 
ボーダー
 薬物依存症のボーダーって言います。えーっとですねえ。僕がダルクにつながったのは、3年半位前ですかねえ。3年半位前につながったんですけども、その頃病院に入院しとったわけですけど、外出してダルクのほうに行ったんですけど鉄格子もなくてね、自由そのままでねえ、これはやっぱり病院よりよっぽどか良いですからねえ。病院の逃げの口実としてねえ、退院の。それで、ダルクに来たんだけど、その時は3ヶ月位使わずにおれたんだけど、それからちょっと駄目でまた入退院のくり返しで、それで1ヶ月半位前に退院してまたつながったんだけど、その前の入寮のときは全然止まらなくてダルクにおるときも、一週間目かなあ、昼間ですけど、近くの薬局に行ってですねえ。「ちょっとラッカー・シンナー下さい」って言ってねえ。それで、もう向こうも知っとるんじゃないですかねえ。「もう、悪いこと使ったら困るよ」って言いながら、こう出してくれるんだけど。それでダルクの前で吸ってました。そしたら警察に捕まりましてねえ。ほいで、しまったなあもうちょっとうまくやれば良かったって思ったけど、全然覚えてないですからねえ。それでまああのう、一週目位にしてから使いましたけど、それからやっぱり止まらないんですよシンナーがねえ。1回使ったものはもう、2回3回使っちゃえってねえ。それで、丁度台風が来ていまして、風でこうガタガタなってるしねえ。これはシンナー吸うのにもってこいの日だと思って、こうゆっくりゆっくり歩きながらねえ。それで倉庫に侵入して、一斗缶盗って来たんですよねえ。それで、ダルクの押し入れに隠しとって、その日の夜、ダルクがデイケア・センターではなくて、シンナー・ハウスに変わっちゃったんだけどねえ。あのう、プカプカプカプカねえ、やっとったんだけど、それであのう、今だから、言えるんですけどダルクをホテルにしたり、ある時はシンナー・ハウスにしたりねえ。
 まあ僕今刈谷から通っているんですけど、最初は、やっぱすごく辛かったですねえ。最初はいやだったっていうか、でも自分の口からダルク通わせてくださいって言ったんですよねえ。そんなこと言うんじゃなかったと思って、2、3日したらしまったNAだけで十分だったなあって思ったんですけどねえ。「まあいいわ、一回行ったで」と思って。
 その頃薬が切れて間もないんですよねえ、精神薬がすごく強くて、なんか記憶にないんですよねえ。記憶になくて、ほれで、きっと独り言でも言いながら通っとったのかなって思ったり、ほいで、一回目の入寮した時にねえ、病院の薬切ったんですよねえ。三日目にして、てんかんみたいなの起こしたんですよねえ。てんかん起こして銭湯の湯船の中にぶーっと沈んでいったらしくて、「これは、精神薬より、よっぽどかシンナーのほうがまだ良いんじゃないのかなあ」って思ったんですよ、その時は。こんなこと起こしたことないですからねえ、シンナー吸って、恐いなあって思って。僕は、豊明のほうのある病院に入院してて、そこはすごいんですよ、もう薬が強いかなんか知らないけど、心臓発作で死ぬ人が多くて、しょっちゅう霊柩車が来て何かやっとるんですよ。あっ、また、死んだなあと思ってねえ。患者を使って死体を運ばせたりする病院なんですけどねえ。で、やっぱりねえ、正直な話すると、シンナー使って死ぬとか思わないですよ。病院へ来て死んでいくのは絶対いやだなあと思ってねえ、それでなんとか今日ももっているのかなあと。病院のこと思い出すのも嫌で、こんなことあまり言いたくなかったんだけどね。「こんなこと言うとまた、使ったときに病院へ入れられるんじゃないかな」って思ってね。
 今度の23日で2ヶ月になるんですけどね、通所して。使わずにですよ。23日、まだほど遠いですよ。だけどやっぱり僕も人間関係で悩むことがすごく多くてね、うまくソフトに会話ができないっていうか、急に止まったりね。一人の世界に入っちゃったりするんですけどね。今ダルクでね、8キロぐらい、10キロ近くかなジョギングするんですよね。すごくやっぱりね、疲れるっていうかな、たぶん嫌だなって思うんですよね。また、走るのかと思ってねえ。だけど、たまに嫌だと思うことあるんですけどね。水泳にしても、1500mも泳げるようになったしねえ。だから、体力もだいぶついてきたなあと思うんですけどね。嫌だなあと思うんですけど、結果は後で振り返ると良い結果出てるし。やっぱり僕ね、19から、今27なんだけど、17回かな、病院入退院繰り返してるんですよねえ。ほいで脱走もしょっちゅうしとったしね。鉄格子の生活はいやで、親も怨んだこともありましたけど、なんとか今日も使わずにいることができてます。ありがとうございました。
 
外山
 どう考えても、不思議な人たちです。こんなに若くて健康そうに見えて、なんでダルクなんか応援するんだみたいなことですよね。誰だって思いますよね。ところが、僕東京から通算しまして、11月が来て10年になりますが、その間に結構若い人たちが、自殺したり、事故死で死んじゃったことがあったりですねえ。あるいは、本当に一回、薬が体の中に入っちゃうと、もう止まらないんですよね、薬を使うとみんな過激な人たちばかりですから、さっきみたいにニヤニヤ笑ってたり、なにか人が言葉を投げかけると、攻撃されるとしか思えないんでしょうかねえ。すごく殻に閉じこもって、やられる前にやるんだという感じになってきますよね。そして、ダルクは度々、シンナー・ハウスやシャブ・ハウスにされながら、でもそういう役割があったんだという気がします。そういう非常に一般には恐ろしい、恐いというイメージしかありませんが、結局は何も起こりませんでした。これが、ダルクの近くに住んでいる保護司が、近所は冷や冷やしてダルクの動向を見守ってたみたいな話がありました。
 そういう中で私たちは生きていて、最近では地域に貢献してるなあというふうに思うようになって来ました。となりに、文房具屋さんがあるんですが、ダルクの文房具用品はそこの文具屋さんで調達する。近くにスーパーありますが、福井から来た前川君が働いていたスーパーがありますが、あそこで、飲料水はほとんど調達するとか、そういう意味で旧態然とした市街地ですから、城東園とかいう旧赤線地帯の中にありますから、リストラというか、再構築が進んでるんですがそういう中で、地域にお役に立っている。ダルクに来る家族の人たちは、どっかのスーパーに寄ってですね、ダルクの皆さんに何かフルーツでもどうぞとか言って、家族の方が買ってくるわけですから、地域活性化の役に立っている。こういうことを思えば思えないこともなくて、そうダルクがあの地区にあることも悪いことではない。こういうことですね。すべて自己満足ですから、自分が気持ち良かったと、感じられるように考えていくということは非常に大切なことです。
 ダルクが2番目に名古屋にできて、3番目に横浜に、4番目に前橋か、大阪かその辺にできて、それから沖縄にできてと、このように日本各地に広がりを見せているということは必然だったと、どこにも薬物の問題を抱えた人たちが行く場所が本当にないんだということですね。だから、こういうふうに広がりを見せてる。ダルクができる前の行き場所は死体置き場と刑務所と精神病院と三つしかなかったんです。ところがダルクができて支える器ができた。しかも、全国8ヶ所にある。当然できるべくしてできたという気がします。それでも、こんな私たちがダルクをやっているのは大体おかしいことで、本当は行政がやるべきです、当然社会でね。
 この間も、東海高校という海部元総理が出た高校があるんですが、この地域で有数の進学校です。県下きってのそこに、2時間くらいダルクの人たちと話をしに言ってきたんですけどね。そのときに、先生がおもしろいこと言ってたんですね。「そうですか。名古屋のこの地域の心有る大人たちが、何か臭いものには蓋をしろというたとえがありますが、そういう蓋をしたくなる心有る大人たちがいるわけですが、そういうものはみんな福信館に集まっている。エイズ、薬物依存、ホームレスの問題、じゃあ、福信館に行けばみんなあるんだ。」と、この地域の蓋をしたい、目を背けたいというものについては、あそこに行けばみんな解決すると、そういう高校の先生と会いました。そういう意味では、ダルクは社会のウンコだ。僕もそうだったから、ウンコだったわけですね。ウンコはウンコとしての役割をこうやって言いたい放題の役割をやってきましたから、誰が文句言おうとも、俺はジゴロで良いんじゃないかってね。黒くてどこが悪いとか、金がなくてどこが悪いとかね。だって、薬止めとるじゃないかと、これで俺は行くしかないなって思いながらここまで来たわけです。で、その結果としてまあ、何人かの人たちが薬が止まって、地方に帰ったりして、そして時々遊びにきて、僕たちを支えてくれてるとこういうことですね。
 で、この次に話す仲間は、元暴力団の組長じゃないですが、ともかく、横浜刑務所の、左手の欠けた小指を隠しながら、僕の前に現れました。で、もうダルクに当時東京でしたけど、生活保護にかけられないんですね。食い物にしますからね。もう相手にしないと。東京ダルクは同じですから、名古屋と、皆さんから送られてきた善意のお金で彼の命が今あるということです。じゃあ、大木さん。よろしくどうぞ。長くは話さないで下さい。要点だけ、青少年の育成のことは良いですから。当時のひどかった時の。
 
スマイル
 薬物依存のスマイルです。私はですねえ。こう、横浜でやっているのが嫌になってですねえ。来週は九州にダルクを作るんですね。それが会議がありまして、大体基本的に了承されたんですね。なぜ了承されたかというと、言ってもやるだろうということが1点ですよね。何を言っても聞かないというのがみんなの所に知れわたっていまして、そういう中で基本的には良いだろうってことになったんですよね。で、12日の日に九州に行くわけですよね。九州に行っていろんな人に出会ってやっていくわけですけど、すごく楽しいんですよね、今。やっぱり何もないところからですねえ、始まったんですよね。ダルクにたどり着いて、行くところもなくてだれにも相手にされなくて、お金もなくてというところで、始まってきたんですね。横浜ダルクを作ったときも、お金があってやったわけではなくて、住友銀行のカードローンを組みまして、そこから80万円引き出してね、それでダルクを作りましてね、で、私は非常に子供ですから、ひんしゅくをかいましてね。非常識だとか、思慮分別がないとかさんざん言われたですよね。非常に強引すぎると言う神父様がいたり、しょっちゅうお金をくださいって司教館に行きますのでね。一番偉い浜尾司教様っていうんですけども、司教様もねえ、まあこの人にはしょうがないだろうってことだったと思うんですよね。私はこの時に、どうしてもお金が必要だったんですよね。司教様に向かって「今すぐお金が欲しいんです。」と言ったら、司教様がポンと30万円持ってきてくれたんですね。まあ、そんなふうに私は非常に子供でしたから、ある部分でみなさんが非常に一生懸命やってくれたんですね。
 ダルクやっていくには、大人になっては駄目なんだなということを思ってるんですよ。いわゆるネクタイをしているような感じですとね、仲間が共感しないですよね。やっぱりスマイルは壊れているとか、スマイルは女が好きだとか、スマイルは本当に何をやるかわからないとかいうところが彼らは共感するんですよね。それが、さっき外山さんが言ったように青少年の話なんかしたら、とんでもないわけですね。だれも共感しないで、ついてこないっていうね。ある意味で大人にならなくて良いんだなというね。私も52才になりますけど、今更、大人になってもしょうがないじゃないかって思ってまして、そういうところで仲間と一緒に歩いて行けるんだろうなって思ってるんですよね。ですから、ダルクは非常にみんな子供ですから。特にダルクの責任者というのは一番成長しないですよね。近藤さんも成長しないし、外山さんも成長しない。みなさん見ていてわかると思うんですが、みんな非常に成長しない。なぜ成長しないのかなというふうに振り返って見ると、成長する必要がないんですね。というのはなぜかというと、一番最初に飛び込んでくるのは、どうしようもない人たちが飛び込んでくるわけですよ。もう、社会から放り出された人たちですね。だから、私たちはダルクに入所したとか言わないですよね。「つながった」という言葉を言いますよね。つながったということは、どこにもつながれていないわけですよね。放り出されて家族からも駄目、社会からも駄目、友達からも駄目、だから「つながる」という言葉が表現されるわけですけども、まあ、そんなような状態ですからね。やっぱり、こう、みんなと一緒にやっていくには、彼らとそこそこ同じレベルじゃないと駄目ですよね。彼らと同じレベル。セックスの話をしたら、彼ら以上にセックスの話ができないと駄目ですね。お金をパクった話だったらこちらの方が上だという話をしなきゃ駄目ですよね。私は、今でも女が大好きですから、あのー、女のことばかり頭の中に妄想がありまして、それでうちの家内はね、今日出てくる前にこう言ったんですね。「おまえの頭はいつも女の話だからね、買って与えられるものなら、買って与えたい」と言っていましたよ。まあ、それくらい未だに直らなくて。私のいろんな話を、物語を知りたかったらまず、一つはダルクの本ですよね。スマイル物語というのが、それから最近『福音宣教』に横川和夫さんという共同信社の人が書いています。私の物語を6月、7月号で出まして、8月号で大体完了するんですけどね。その中にたくさん書いたんですよね。人妻が好きだとか、こうやった、ああやったとかね。きれいに書いてるんですよ。こんなにまで書かなくてもいいのになあと思うところまで書いてあってですねえ。このところはちょっと外してほしいなあって思うところまで、書いたんですね。それも私の役割ですから、横川さんにどんどんどんどん書いていただいてですね。
 やっぱりこう、今振り返ってみてですねえ。ダルクというところは、竹谷神父様が最初言っていましたけどね。本当にみなさんの小さな善意の中で活動できることが一番なんだろうと、私は横浜で一生懸命やって公的助成、全国で初めて受けましたけどね、守る人と戦う人がいるんですよね。私はどっちかというと、戦う人ですから、とても守ってられないと、一生懸命守るために意識を変えようとしました。理事会のいうとおりやりましょうとかね。お金は節約しましょうとか、一年ちょっとやってみましたけど、できなかったですね。ですから、今でも会計さんが頭ひねってますよ。予算はいくらいくらって決まっているのに、それ以上に使いますのでね、それが、まあ、私なんだろうって思ってまして。
 まあ、来年は九州にダルクを作りますので是非ね、日本全国で9ヶ所になりますね。名古屋が駄目なら沖縄があるさということでね。まあ、その分みんな色々やってもらうんじゃないですかね。親は大変ですけども、ダルクに任せていただいてですね。まあ、みんなと一緒に歩いて行けたらと思います。どうもありがとうございました。
 
外山
 どうもありがとうございました。今のスマイルさんの当時の口癖が「東京湾に沈めてやるぞ」、それぐらいしか、言えない人でした。そんな人をこういう場所で9番目のダルクをやると、これはみんなと一緒にやってたら、不思議なことが起きてくるという一つの証しでもあります。
 で、ここら辺で本人のお話はこれくらいにして、家族の痛みというか、お母さんが、ダルクに入寮してた大阪のほうの人だったんですが、ダルクに入寮して、名古屋のとらわれの身なんですが、お母さんのご心痛というか、ダルクにいろんなお母さんが来るんですが、みんな同じですよね。自分の命はほっといても、支えようみたいな、母親ってのはそういう存在らしくて、お母さんの痛みを一回聞いてみたいなというふうに思います。じゃあ田辺さんよろしくお願いします。突然のご指名で申し訳ありませんが。
 
田辺
 突然言われまして、ちょっと上がっております。なんとも言葉が出ないかもわからないんですけれども、ずっと長い間本当に名古屋でお世話になりまして、子供がどこにどういうふうに相談に行けばいいのかまったくわからなくて、最初は普通の病院へ一度とにかく診てもらおうと行きまして、それで、この子はとにかく咳止めがやめられない子だったんですけれども、絶対体がおかしいからどこか、診てもらおうと思ったんですけれども、別にどこも異常がないと言われるんですね。絶対そんなことないです。この子は頭もおかしいですしょうし、どこかおかしいはずですとか言ったんですけど、別に全然異常がないということで、それで一度病院に入りましたけれども、そこも結局置いてもらえない。で、もう本当にそういう病院関係を2ヶ所ほど行きましたけど、喧嘩もしてまいりましてね。その、どうしても治療してもらえない。それで、治す気の無いものは置けません。というようなことで追い出されたりとか、いろいろございました。
 で、どこへ行けばよいのかわからないような状況の中で、結局とにかく自活させようということで初めて、もう成人しておりましたので、外へ出して自活させようということで、外で生活させるようにしたんですけれども、もうそれはまた犯罪につながるわけですね。で、問題を起こしまして犯罪につながる。で、そこで初めて色々とそういう薬物依存者は自助グループでダルクというのがあるということを教えていただくことができたので、あのー、じゃあ、あんたはとにかくそういう所へ、みなさん同じ様な仲間のいらっしゃるところで生活して、回復はかるしか仕方ないねということで、ずっとその拘置所に入っております時に言い聞かせまして、なんかこう洗脳してやろうという気持ちもなかったのかもわからないんですけれども、そういうようなことでとにかく本人に言って聞かせて、じゃあ自分はどこで生きていくのかもう行くところがないから、じゃあそういうところへとにかく行ったら良いんだねというような感じで、自分がそういうふうな気持ちになっていったんですね。でそういうことで、まあ拘置所を出て、執行猶予のまま、名古屋の外山さんをお訪ねいたしまして、そしてお世話になりました。で、今も本人の意志でこう自発的に入らせていただいたんではないので、外山さんからよく護送されて来ましたっていうふうに表現されると、あっと思って胸をつかれるんですけれども。
 そういうふうな形で名古屋ダルクにお世話になりまして、それからまた、1年位お世話になったあと、外へ出てダルクの近くで生活させていただいいて、それからまた問題が色々起こりまして、で、また今名古屋の拘置所にお世話になっております。だから、執行猶予の間に問題を起こしたものですから、今度は実刑もらいましてそれでまあ、2年なるのか何年なるのか知りませんですけれども、一応入っているわけです。でまた、これからも色々と長いことまた、外山さんの名古屋ダルクでお世話になることになるということでまたお願いしているのですけれども、そういうような状況でございます。
 大阪の方でもそういう家族の方がたくさんいらっしゃいまして、咳止めの問題持つ方もありますし、覚醒剤とかそういう問題のお子様持つ方とかたくさんいらっしゃいまして、家族の会がないから一つこういう家族で話し合いが作りたいなあ、そういう会が作りたいなあということで、名古屋にはございましたけれども大阪にそういうものがなかったものですから、大阪にやっとナラノン(薬物依存症の家族の集まり)のほうを作ることができまして、今みなさんそういう家族のおかあさん方と週一回火曜日に集まって、お話し合いとかさせていただくことができまして、皆さんで心が合わせられる会ができまして、本当に私も救われた思いになっているんですけれども、これからもまたダルクのみなさんによろしくお願いいたします。
 
外山
 神父様だいたいこのくらいの時間で、もう少し?
 次に話してくださいますのは、今不思議な大学院生がダルクに来ています。この人は非常に不思議な人で、どういうこと、始めは論文を書くために薬物依存というその部分にスポットを当てて何かそれを勉強してみようと、ダルクは勉強する場所でもないのに、そんなたいそうなことができる場所でもないのに、変なことに彼女は足しげく、夜のミーティングとかに姿を現します。で、少しで良いですから笹川さんよろしく、今日お話してください。お願いします。笹川さんっていいます。心理の大学院の学生さんです。
 
笹川
 風邪をひいているのであまり声が出ないんですけれども、愛知学院大学の大学院で今年修士論文を書かなくてはいけないので、薬物依存の問題について書こうと思ってダルクに勉強させていただくために通っているんですが、今日話すなんて聞いていなかったので、困ってるんですけど。
 昼のダルクの方は授業でなかなか出られないんですが夜のミーティングの方は自分の都合のいい時に参加しているんですけど、そこで一番私が感じたのは、ミーティングに出る前に自分の問題でいらいらしてるようなことがあっても、でとりあえずミーティング行かなきゃと思って、行って私がなにか話すわけでもないけど、来てるみなさんの話を聞いて帰っていく時はなぜかすごいいつもにこにこで帰れて、何か自分の精神状態っていうか、自分のメンタルヘルスというか、自分の心の健康を保てるなと思って帰ってます。
 論文の方はこういう感じで行こうかなという構想はだんだん決ってきたんですけども、これから皆さんに協力していただかなければいけないので、よろしくお願いいたします。というところですが。
 
外山
 ちなみにね、来年卒業ですから、どこかの良い働き場所がないかと、こういうことも探しておりますので、よろしくみなさまお願いいたします。えー、この後ですね、カラオケがあったり、今そっちの食堂の方においしそうな散らし寿司とかですね、ソーメンとかがありますので、もうしばらくしたら出てくることと思います。
 でこんなふうに笹川さんがミーティングに出ると心がいやされるという話をしてましたけど、こういう不思議な混乱していたり、緊張していたり、何か訳がわからないけどいらいらしていたり、みたいなこういう社会に住んでいますよね、そういう中で自分をいやしていくということが重要なことだと思います。僕は、結婚していましてね、障害児二人の父親ですよね、そうして貧乏ダルクのディレクターです。で、いつも貧乏ダルクですから家に帰ると私の妻はですね、将来の展望が持てませんからね、いつもいらいらするわけです。ボーナスあるわけではない。もう、10年月給20万だと、後は、国民年金は払えない。国民年金ちょっと待ってってお役所に、そういう僕の環境がありましてね、幸せを夢見て、大学を卒業して僕の所に嫁いで来た妻は、それは不満なんでしょうね。でそういう中で僕はダルクをやっていましてね、明日もわからないわけですよね。時々シャブ・ハウスにされたり、シンナー・ハウスにされて時々北警察からもうあちこち電話がかかってね、次は西警察だ。お金も作らなくちゃいけないと。僕が作ってるわけじゃないんですがなんとかしなくちゃいけないとかで焦るわけです。そういう状況の中でいまと、家に帰っても疲れて何か寝るだけなんですよね。
 まあ、このように苦労の多い毎日なのですが、私がどうにかやっていけるのは、いつも支えてくださっている皆様の善意があるからなんです。その善意に、私たちは感謝しています。またその善意に応えるためにも、そして唯一、ダルクが薬物依存からの回復を目指す人たちのいやしの場として存在する限り、前に進むしかないと思っています。より一層のご支援をお願いいたします。


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