典礼による学び(7)神言会 修練長市瀬 英昭
「ことばの典礼」の基本的な構造は「神が人に語りかけ、人がこれに応える」というものですが、留意すべきはここでの「沈黙する」ということの位置と意味です。沈黙とは単に音がないということを意味するのではないと思います。典礼祭儀のなかの沈黙にもいろんな次元のものがあります。回心の祈りの前に自分を振り返る沈黙、聖書のことばを聞く前と後の緊張と応答としての沈黙、キリストのパンを受けた後の感謝と語らいの沈黙などそれらは祭儀全体の流れにとって不可欠の要素になっています。聖書のことばの朗読に限っていうなら、聴いて応えるためには、そこに差し出されたことばがよく味わわれる必要があります。それは単に知的にことばの意味が了承されるということにとどまりません。人間の手でかかれた言葉が「神のことば」に「なる!」という実感が大切でしょうし、それらに触れて私たち自身の生が照らされ、いやされ、励まされるということが起こるためにはどうしてもそこに静かなひとときが必要とされます。神と人との語らいが暖かく、深くときに厳粛になされるこの場を大切にしたいと思います。 日本の教会の現在の典礼で預言書や使徒書の朗読の後、神に感謝、と唱えずただちに沈黙に入るという方法はいくつかの可能性のなかのひとつです。将来はこのいわゆる規則はいくつかの選択肢のなかのひとつとして表記されるかもしれません。いずれにしても、その応唱をみんなで唱えるか、沈黙にするか、そのいずれをとっても―それを「どういう風におこなうか」によって―結果はよくも悪くもなります。朗読者が朗読の直後に粗雑な仕方でさっさと自席へ戻るとするなら、そしてそこに集まっている共同体が聖書のことばを心に響かせ味わえるような「間」を大切にしないとしたら、朗読後の応唱なしは単なる手抜きと同じことになってしまいます。そうなるくらいならば、いっそのこと全員がしばしの沈黙ののち、心を込めて「神に感謝」と賛美した方が良い、ということにもなります。実際に、福音書の朗読の後に私たちは「キリストに賛美」と応えているのですから。 大切なのは、微に入り細に入った規則ではなく、私たちの心です。重要なことは、私たち自身がそれによって生かされ、生き返らされる聖書のことばを本当に大切に扱っているかどうかです。
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