「英語のできない私がインドへ行ってきました」竹谷 基
10月14日から10月26日まで生まれてまだ二回目の海外に行ってきました。それは、インドのプーナで開かれた、神言会アジアパシフィックゾーンの正義と平和委員会の代表者会議に菊地功師の好意により連れて行ってもらったからであります。(決して会議には加われなかった。)会議については菊地師にまかせ、私はもっぱら、会議外で見たこと、感じたこと(何せ、私はトント英語が話せないもので)を二、三、記します。 ボンベイ行きの飛行機にシンガポールから乗ったとき、まさに、機中は労働者の国際移動の人々でごったがえしだった。日本ではさしずめ、盆か正月に故郷へ手土産を持って帰省する労働者の混雑する列車のようだった。人々は、生活と仕事を求めて海外まで移動する、ことを実感した。 ボンベイ国際空港から管区長館まで行く間、仰天することばかり。道路の沿線にはスラムと思しきものが延々と続き、交差点の分離帯では裸の痩せた幼子が一人で横になっていたり、街角の歩道のいたるところに路上生活者が寝ていたのである。 翌朝、管区長館の付近を散策した。まず、その雑踏に驚いた。人間の多さと食べ物から衣類、靴、雑貨を商いとする露天の多いこと、道路ではその幅いっぱいに自家用車をはじめトラック、バス、リキ車(三人乗りの三輪車タクシー)オートバイ、自転車、がひしめきあい、その上に人が歩き、牛はゆうゆうと歩いていたのである。また、乳飲み子のいる家族が路上で過ごしている様子や、物乞いの子供が私にしつこくついて来るのには辟易した。私は、その暑さと埃っぽい町の中を、次から次へと声をかける物乞いたちを背に俯きかげんに歩いているイエスを想像した。 会議期間の途中、夕食に招待していただいた大神学校の神父に私は質問した。「インドの人々にとっての幸せとは」。師曰く。「お金」。それでは、「インドの人にとって福音とは」。師宣う、「貧しいものは幸いなり」。私は、これほどこの言葉が神の祝福であることを思わずにはいられなかった。列車の中では、ひっきりなしに往来する物売りや靴みがきの少年や物乞いに来る子供や目の見えない親子らを正視できなかった。いうまでもなく、いわゆる第三世界の貧困は国際経済の構造上、日本らの先進国の搾取収奪の結果である。その一員である私は、彼の子供たちに物乞いをさせているのだ。「富める者は禍だ」。 マザーテレサにも限界があったけれども、ともかく、その貧者への一途な働きは宗教人種を越えて称賛された。学者がどんな学位や賞をとっても、あれほど、人の耳目を集めることはない。学校がどんなに豪華な建物を作ったとしても、教育産業としかみなされない。私たちの召命はあのガリラヤで貧しい人々と一途に生きたイエスに出会ったからではないだろうか。 今回の旅は、英語のできない私にも、メディテイションの旅であった。 「ももちゃん便り」目次に戻る |