典礼による学び(6)神言会 修練長市瀬 英昭
「人間は自分が何を持っているかにはよく気がつくが、自分が何者であるかにはあまり気をとめない」と言った哲学者がいます。確かに、肩書きや財産という「もの」はわかりやすいですが、人間は「それだけのものではない」。このことを公けに正々堂々と言い続けたのがイエスだった。―である!―と言えるでしょう。これをことばとして理解するのが「ことばの典礼」の主な部分です。イエスは「ことば」という贈り物を出会う人々に渡していき、そのことばで新しく生き始めることができるようにと願われた。そして最後には自分自身を「パンとブドウ酒」という「食べ物」として自分を渡していかれた。そして今もここにミサという形式の中でそうし続けておられる。このイエス自身は神から私たちへの「贈り物」です。この贈り物に対する私たちの最大の応答は「感謝」(エウカリスティア)です。ことばによっても物によってもこの感謝をあらわすこと。とりわけ、パウロも言うように「私たちのからだ」を、つまり私たち自身の生活を感謝で満たしていくこと、これがキリスト者のあり方ではないでしょうか。 典礼祭儀の中で「神が人に語りかけ、人がこれに応えていく」という形式が見事に整えられています。しかしながら、実際のミサではそれは十分に生かされていないこともあるようです。そこで語られ、聴かれ、祈られ、歌われることばたちがいのちをもって私たちにせまってくることが肝心なのですが。 「信仰は聴くことにより、しかも、キリストの言葉を聴くことによって始まる」(ローマ10:17)のですが、実際に私たちは聞こえることばを聴いていないことがあります。いや、それ以前に、「心に届くような朗読」がなされていないのかもしれません。会衆が聖書と典礼というパンフレットの文字を目で追いながらことばの「意味」だけを理解しようとしている限り、神と人々との生きた対話は不可能でしょう。祭儀の場はテキストの「読み合わせ」をするところではなく、書かれた文字が「朗読され、語りかけ」られることによってそのいのちを吹き返す場、そして私たちがそれによって作り替えられる場であると言えます。例えば、「あなたの罪が赦された。さあ、立ち上がって歩きなさい」というキリストのことばは私たちに「意味」だけを伝えようとしている訳ではありません。それは実際に「いま、ここで」私たちに立ち上がる「ちから」を与えるキリストの声です。そのように朗読され、そのように聴かれるなら私たちの生活は変わってくるでしょう。
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