「参加する仏教(5)」

死する生と仏教

真宗僧侶 山田蓮孝


 人間とは迷っている主体をいう。迷っていることを自覚出来るのは、迷いを超えた世界に出会わされてからのことである。
 如来とは如より来する力をいう。如とは、人間の日常感覚を遙かに超越した絶対界であり、その力に依って人間が人間であることを自覚出来る。一般に人間、人間と言っているが、それは経験主義(日常感覚に依るところの)より形成された人間観か、思弁的なものか、知性で捉えた科学的な人間観を言っている。自分自身が人間の内にいるという自覚のない人間観であるので、立場により多種多様である。
 仏教の人間観というのは、人間が自分の意志力では全くわからない深い世界から観た人間。その深い深い絶対界は人間を超越しているが、そこに到達させられるのは人間である。到達せしめる力を如来といい、法の力という。つまり、如の方から「私」へやって来て「私」という存在を自覚せしめると同事に、法を感得せしめられるのである。ここに新たなる「我」が生まれる。凡仏一体としての「我」である。常に凡夫(五つの畏れをもって生活する者)であることを法に依って自覚させられ続ける「我」が誕生する。
 如来に出会う前は、迷い悩むことが大きな苦痛であり不安である。それらがなくなったらどんなに快適であろうかと考える。自分の意志力をもって迷い悩むことを消滅させようとするが、一時的にしか消すことが出来なくて、一難去って又一難を繰り返すのみで、過去に後悔し、未来に不安がるものだ。現在、たった今、このままの状態での安心がない為である。その流転する身に如来が用(はたら)いた、正にその時、安心して迷い悩むことが常に出来る新しい「我」が誕生するのである。これを如来より賜る信心という。信心の相として安心、世間でいう安心とは全く異質なる安心がある。それは、どのような死に方をしても、それで良し、死んでから先の心配が全く無いというものである。今、調子が良かろうが、悪かろうが消えて無くならぬ安心感をいう。そこに如来と「我」の繋がりが成立する。如は無作為の世界、「我」は作為の世界で、無作為の力に依って作為していることを自覚しているのである。(完)
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