野暮天信徒のトラブル・エッセイ

ももちゃんねっと 柄沢 利和


 僕のいつも考えていることときたら、キリスト信徒としていかに生きるかということは、ほとんど頭の中にはなく、明日の支払いをどうしよう、どうしたら誰かから借金ができるだろうか、とか、納期の遅れそうな仕事の言い訳をどうしようなどということばかり考えています。そして、維持費や献金のことが気になり、ミサに与ることは大切だと思いつつも、足がどうしても教会に向いません。
 絶対的に、お金も時間も健康も乏しくなってきている現状では、今やっていることが精一杯なのです。特に、誤解されて、「福信館を悪用していると言っている人がいる」などとささやかれたりすると、疲れてしまいます。
 全てを放り出して、死ねたらどんなに良いだろうと思ったりもします。
 しかし、こんな時にも福信館の炊き出しの皆さんは優しい眼差しで、「柄沢さん、元気?」とか「たまには、ご飯食べに来なさいよ」とか、声をかけてくださり、本当に励まされ、生きる希望が湧いてきます。
 キリストがこの世で示した救いとは、このようなことではないでしょうか?
 現世の幸せに捕らわれ、ガールフレンドや、愛する奥さんとクリスマス・イブを過ごす人々を妬み、所属の教会のミサよりも、仕事を選んでパソコンに向っている、とっても不信仰な私ですが、こんな私にでさえ、恵みを下さっているキリストに感謝し、最後の希望を抱いています。
 そして、ぼくよりも厳しい寒さの中で路上で生活し、ゴミ箱の残飯をあさって、ようやく食べているおじさんたち。おじさんたちは、そんな生活の中でも仲間を大切にし、しばしば、人生で本当に大切なことを教えてもらったりします。
 確かに、金も欲しい。時間も欲しい。欲しくてたまらないのですが、ももちゃん−ねっとを手伝ったり、炊き出しのお手伝いをさせてもらっているのは、そんなおじさんたちの一助になりたいと思っているからです。


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