「参加する仏教(4)」

安定を放棄したところに自由がやって来るのだろうか

真宗僧侶 山田蓮孝


 今でもそうだと思うが、私の十代の頃は、いい大学を出て、いいところに就職をして(つまり高い社会的地位、名誉を得て)、毎月安定した収入を得て、定年退職後はそれまで働いた蓄えでゆったりと老後の生活をする、というのが日本の男性の一般的な人生観であった。つまり、安定した生活をするのが良い人生と考えられ、そのためには職場などでイヤな事があってもジッとガマンして、安定した生活をこわさないようにする、というわけである。言いたいことも口にせず、周囲の顔色をうかがって、属する組織の力の強い方の派閥にくっついて、ただ己れの保身に走る。そうしていれば解雇させられることもなく、不利なところに転勤させられることもない。それで己れだけでなく妻や子の安定も守ることができる。いつも自分にとって有利になるようにポーズをつくってふるまい、上司から良い点数をつけてもらうようにする。組織の建前だけを口にして、けっして本音を言わず、自分で責任はとらない。ただし、本音のように見せかけて、わざとらしい発言をすることはあるが、あくまでも計算づくである。組織内の酒の席においても変わらない。
 そのような見せかけ、偽りの「自分」を演じていれば、正面切って責任を追求されることもなく、組織内での「人間関係」(※著者にとっては実になつかしい言葉である)は、偽りの状態でうまくゆく(ただし、組織を離れた酒の場においては本音が強く出る)。
 以上、少し極端な表現をもって簡単に述べたが、私が察するところのこれが安定した生活のベースになる職場組織での態度のひとつの例とは言えまいか。
 つまり、全く己れの姿と反した芝居を演ずることによって「安定した生活」が手に入るということだ。その生活が楽だ、と思い込んでいるが、どこに溌剌さ、自然さがあるだろうか、そしてどこに自由があるのだろうか…、そう、どこにもないのである。「安定」の為には、自分の内面の深いところより沸き上がる溌剌さ、自然さ、自由なる精神を全く犠牲にしなくてはならないわけである。
 私はかつて社会福祉法人の職員をしていた。その時、将来は理事会に入る可能性を有していた。しかし、いつも空しさと、納得出来ない感覚につきまとわれていた。
 (これで一生を終えてしまうのだろうか…。飼われた状態のまま、このまま行ってしまうのか、確かに給与というエサは出るのだが…。)
 その後、私はそこを辞職して、保証も退職金もなく、寺も持たないひとりの僧侶になった。つまり「安定した生活」を放棄したのであった。しかし、私の内面に絶対安心が感得できえなかった時期は、後悔したものである。以前の「飼われていた時」の方がよかったのではないか、こんな不安定収入の状態ではどこか「安定した生活」が出来る経済的に豊かなお寺へ入らねばならない、と常時消えない不安があり、溌剌とした自然さ、自由さなど内側から沸き上がってこなかった。外面の生活を変えても、内的感覚(生死の主体的実感)の質的転換(根元的転換=解放の第一段階である内的解放)がないと、以前の見せかけ、偽りの自分と何ら変わらないのであった。
 今回は安定と自由をテーマにペンを走らせた。
             合 掌


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