典礼による学び(3)

神言会 修練長 市瀬 英昭


 私たちは毎日空気を吸って、つまり「呼吸」をしながら生きています。普段はそのようなことは気にも留めませんが、実際には呼吸できなくなると人間は死んでしまいます。また呼吸が乱れるということは、何かある種の「病気」の兆候だと言ってもいいでしょう。これくらい呼吸するということは大切なことです。そしてそれは意識しないでできるのが健全なあり方といえます。同じような言葉に「深呼吸」がありますが、これは少し事情が異なります。それはある意味で意識的に行うものです。大事なことを始める前や気を引き締めるときや自分を落ち着かせるときなどに私たちは深呼吸をします。そうすることで気持ちが整い、実際にからだが整います。
 典礼に参加することはそのような意味で「深呼吸する」ことだといえるでしょう。私たちは日常をよく生き抜くために、時としてこの日常を一旦離れてみることが必要ではないでしょうか。典礼史はこの時としてということを「定期的に」という知恵の言葉で表現しています。いろんな困難や心配事や喜びや悲しみのなかを流れている日常を新たに見直すために身仕度を整えて教会へとやって来る−というより信者の集まるところが教会になるのですが−ことの意味。主日ごとに。神から呼び集められてひとつに集まってくる。もうそれだけで大きな意味があります。この「忙しい」現代生活のなかにあって、典礼の場に集うということは、それ自体でひとつの信仰宣言になります。なぜならそれは、私たちを本当に生かしているものが仕事や業績や財産というような「もの」でなく、「神ご自身」であるという信仰を表現していることになるからです。それは同時に現代社会のある価値観へのチャレンジ、問いかけです。人間は神のいのちを呼吸し深呼吸することによって生きているのだ、という信仰がここにあります。
 さて、元来のミサは、聖金曜日の聖式になごりをとどめいてるように、直接に聖書朗読から始まっていました。それが歴史の流れのなかで徐々に現在の「開祭の部」が形成されてくることになります。信者の数が増し、建物が大きくなり、儀式としての体裁が整えられてくる訳です。それはある意味で必然であり必要でもあるでしょう。しかし、本質を見失わせることになってはいけないでしょう。「会衆が集まってから」司式者、奉仕者たちが入堂します。入祭の歌、司式者の招きの言葉があり、神が私たちの心を開いて下さるよう共に祈ってから、司式者はみんなの心、願いをひとつにまとめる「集会祈願」を唱えます。ゆっくりと、大きな声で、信頼を込めて。こうして「ことばの典礼」が始まります。


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