戦後50年と私(1)司会 竹谷 基
5月に三人のホームレスの方にインタビューさせていただきました。それは、どういう経緯で野宿をしなければならなかったのかを知 りたかったためであります。それと、同時に、戦後50年ひたすら経済成長を走ってきて、一部その恩恵を受けた日本ですが、一方、その 裏には、野宿をよぎなくされた人々も生み出したその50年の歴史を忘れてはならないと思ったからであります。 三人には、いつも、炊き出しや畑仕事、他を手伝っていただいています。 五月女正夫。生まれたのは静岡県掛川市、1945(昭和20)年6月18日。今年の6月で50才。 〈ちょうど、50才だね。戦争が8月15日に終わっているから、その前は覚えていないはね。戦争が終わった時のことはね。〉 いや、覚えていないけれど東京のおばさんが家に疎開してきた。おれ、ちょうどその時生まれたもんで、おばさんたちは東京へ帰るとい うもんで一緒に連れて行ってもらって、一緒に東京へ行った。うちのおふくろは俺が生まれてすぐ体を悪くして育てられない、育て難い というのでおばさんに育てられるために東京の目黒に行った。生まれてすぐ。 大川政美。1944(昭和19)年8月20日。長崎市高岡町。浦上の方。 〈じゃあ、戦争終わる1年前だから、覚えている?戦争終わった頃〉 親から聞いたけれど、その時に、死んだおふくろがまだ赤ん坊の俺に防空壕にね頭巾かぶせて入ったり出たりしていたらしいわ。それが 生まれて3か月目に大火傷やって死にかかった。 〈自分が?あーほんと。それは事故かなんかで?〉 お茶で。 〈原爆の事は?〉 原爆の事はもうわかっています。 〈覚えていると言ってもまだ1つだものな。何か記憶がある?〉 原爆の時に僕の親父が亡くなっているから。おふくろは僕が火傷をして病院に見せた時亡くなっているから、原爆の前にお母さんは亡く なっている。兄弟はいない。一人っ子です。 〈五月女さんも一人っ子?〉 俺は4人。4人兄弟の上から3番目。女2人、男2人。次男。お兄さんがいる。 〈じゃあ、もう大川さんはお母さんもお父さんも死んじゃったわけでしょう。その後どうなったの?〉 その後、親戚に4回か5回くらいたらい回しになった。長崎市内で小学校に上がる時に施設で中学3年まで育てられた。 〈大変だったねえ。〉 それで全然、両親の顔もはっきり覚えていないし 〈ふーん、で、なに親父も…家も全部原爆で壊われたわけ?〉 壊れちゃった。 〈今、覚えている?場所。長崎に行けばこの辺だと〉。 はい、覚えています。浦上のちょうど中心だから。 〈神社、片足神社って鳥居知っている?〉 知っています。 〈ふーん、じゃあ長崎大学は? 浦上天主堂は? 知っているでしょう。〉 知っています。あの近くです。それで中学を卒業してすぐに岐阜に出た。 〈学校終わっちゃったからね。で、施設も出なあかんということでそれで岐阜に来た訳ね。〉 焼き物関係で、そこで23年間いましたから。ボイラの免許を取って 〈ちょっと待って、それは後からね。じゃあ次、山ちゃん〉 山本義文、1950(昭和25)年6月11日。長男。名古屋生まれ。 〈じゃあ、山ちゃんは戦争の事は覚えていないわね。〉 覚えていない。赤ん坊の時から入院していた。病気で、頭に出来物でき―あれな十八がさという出来物できるんだ―死にそうになった。 生まれてからずっと○病院に入院していた。で、治ってまたすぐ、小さい時から体が弱くてちょっとしてもすぐ病気になって。 〈体が弱かった。どういう病気なのかな? え?〉 うどの大木と言って毒気が多かった。 〈うどの大木? そんな名前なの。〉 おふくろがそう言った。○病院があるでしょう、そこでずっと入院していた。 〈十八がさと言うの?それで痛いの?どうなの?〉 いた痒い。掻くと膿が出てくる。ものすごく。 〈へえー、なんでそういう病気になったのか分からないの。いつまで?〉 ずーっといたよ。3年くらい。退院してまたすぐ、ちょっとやるとまた通院して、入院したり退院したり。 〈学校は?〉 学校は小学校行ったよ。小さい時からものすごくやせていた。今肥えているけど。 〈小さい時は体が弱かったわけだ。他に病気はしなかった?〉 ま、そういう病気ばっかり。 〈今は大丈夫?〉 大丈夫。掻くから血が出たり膿がでたり、―夏になるとむしれてくる。ぶつぶつがでてくる。十八がさと言うのは掻けば膿が出てくるで しょう。それで完全に治るでしょう。そうすると今度は脳にくるわけ。手遅れになると命がなくなっちゃう。何で僕がそれを知っている かというと、地域にそういう子がおった。それで亡くなっちゃったんだ、女の子でね。 小学校出て中学校出てうちでペンキ屋やって。うちがペンキ屋だったでね。家の仕事を手伝った。 〈長男だからやっぱり家の仕事をやれと継げって最初からね。ふーん。〉 家は女の子が4人いるでしょ。男が一人だった。上ばっかり。一番下。 〈初めての男の子で長男で大事にされた。〉 姉さんの旦那が今ペンキ屋やっているでしょ。姉さんの旦那にその仕事を乗っ取られた。 〈次、五月女さん。その後東京に移ってから。東京へ移ったのはお父さんもお母さんも死んじゃったから?〉 いや、そうじゃなくて。まだお袋は生きていたけれど、ただ体が弱くてお袋の元では育てられないって、ちょうど伯母さんが帰ると言う ので一緒に連れて行ってもらった。親父はまだその時生きていた。 〈静岡掛川といったね。何していたの、農家していたの?〉 家はお寺やっていた。 〈お父さんはお坊さん?〉 そう。親父は俺が中学校出てから亡くなった。その前にもうお袋が俺が小学校4年の時に亡くなった。 〈でもね、お父さんがいたらお父さんと一緒にいたら良かったのにね。わからん?〉 それが今度中学卒業するまで、ちょうど親父といたけどな。 〈お父さんといた。〉 ん、そばにな。 〈東京に行って、またもどって来た?〉 東京行って、小学校上がるというので戻って 〈東京にはどれくらいいたの? 伯母さんのところは。〉 だから6年くらいかな。小学校、中学校は掛川に戻ってね。 〈じゃあ、ほんとに小さいときだけ伯母さんの所にいたのね。〉 それから、俺が小さい時にお袋が病気で死んじゃって、その頃は医者にかかるお金もないし、医者もろくな医者がいないし、結局、家に 母は十何年か寝っ放しで、 〈弱かったんだわな。なに、でも、お寺やっているんだものお金あったんじゃない。そうでもない。〉 そうでもない。 〈貧乏寺。貧乏寺ってどういうのかな、何宗かわかる?〉 日蓮宗。 〈え、ほんとうに。で、誰か、家の人がお寺を継いだ人がいる?継がない?〉 兄貴がやっている。今もやっている。親父が死んだのは今から十二、三年前。 〈その時には、お父さんがなくなった時には家に行きましたか? 葬式に。〉 その時には、家に行ったね。中学卒業してから俺、集団就職で東京に行って、東京で16年くらい働いて、それから帰って来て、帰ってく る2、3年前に親父は死んじゃって 〈東京へ就職で行ったんですね。中学を卒業して。どういう仕事をしていたのですか。〉 最初はプラスチック加工、東京へ行ったのは昭和36年。 〈オリンピックの年だね。東京はまだ元気な時だね。〉 プラスチック加工の会社が倒産してしまって、ここには十二、三年いた。 〈倒産した。で、その時どうなったの? お金もらえた?〉 その時はもらわない。もらっても一人5万円くらい。 〈いまから20年くらい前?〉 そうだね。 〈十二、三年勤めて5万ですか、会社潰れました、バイバイじゃ冷たいですね。〉 それでしかたないもんで東京で仕事探して、今度はメッキ工。それは3年くらい。電気部品の中のあれ、テレビのブラウン管とかあれを メッキして機械でメッキするんだけれど、メッキの液がさ鼻にくる。下手をすると鼻の中に穴が開いてしまう。だからそれが危ないとい うのでやめた。 〈プラスチックの最初勤めていた所はそれはどういうところ?〉 それも電気の部品だ。ソケットとか電球のかさとかそういうもの。 〈これは皆普通の町工場みたいなところですね。そんな大きな所じゃないのね。覚えている?東京のどの辺にあったか。〉 最初のプラスチック工場は東京の大田区。東京大学のまえ。 〈その頃はどうですか? 生活はたのしかった?〉 その頃は、楽しかったね。 〈給料もまあまあよかった?〉 給料もまあまあ。 〈困ることはなかった? 生活で苦しいことはなかったですか?〉 その頃はなかったね。 〈でも、倒産したときは困ったでしょう。〉 その時は困ったけれど、少し、いくらか蓄えたから。貯金とか。20万くらいあった。それを全部使い果たした。 〈そのプラスチック工場から次のメッキ工場に移る間でにちょっと時間がかかった? すぐ就職できなかった?〉 1か月くらい、遊んだのかな。わりとすぐに… 〈住む所とかそういうのは自分で探して?〉 住む所は、プラスチック工場とかメッキ工場は寮があったもんで、 〈じゃあ、そこまでにしましょうかね。はい、大川さんです。ごめんね。岐阜の多治見に来ました。それから?〉 多治見で焼き物関係で23年いました。だいたい40才前まで。 〈焼き物と言っても色々あるけれど、どういうのですか。〉 湯のみ、それから洋食皿、それから花瓶、灰皿そういうもの。 〈その工場には、どのくらいいたのですか。〉 そこの社長夫婦がいっぺんに癌で亡くなったからね。結局自分で辞めたのではなく、癌で亡くなってるもんで跡取りがいないわけです。 娘だから。そこでどうしようもなくて、今まで23年間働いていた金を貯金していて、それでもう一応長崎に帰りました。 〈辞めて帰ったの?〉 工場やめてね帰った。 〈なんでやめたの?〉 やめたんでなくて、もう倒産しちゃってるもんで、一回けじめを付けようと思って帰りました。 〈倒産しちゃったわけ。どうして倒産したか知っている?〉 結局もう、跡取りもいないし、やっぱり死んだ親の事を思い出して少しの金でも握って田舎に帰って、墓でも立てて上げましたけどね。 〈親父のね、両親のね墓を立てようと思って長崎に帰ったのね。ふーん。だいたい今から20年くらい前のことだね、やめたのは。ま、焼 き物もだんだん儲からん時期になってきたわね。〉 一番最初、施設を出て集団就職じゃないんだけれど、自分で仕事を探して多治見まで行って、昭和36年くらいね。その時一番苦しかった のは給料が1万円くらいしかもらえなかった。 〈五月女さん覚えている?最初いくらもらいましたか。〉 七千円くらい。 〈あー住込みだしな。おかちゃんも住込みだわね。七千円か。でもおかちゃん中学を卒業してから岐阜にきたでしょう。何年ごろですか 。〉 中学卒業が33年だから。 〈33年くらいだわね。じゃあ伊勢湾台風を知っている?〉 名古屋へ出て来た時は知っている。 〈で、多治見にずーっといたわけね。〉 はい。 〈それで生活はどうでした?苦しくなかった?〉 苦しかったですね、やっぱりね。やっぱり、布団で寝とっても、やっぱり夜中でも日曜日が休みの時でも、みんな家族で映画を見にいっ たり何かしているでしょう。それを見ていると思い出したりして布団の中で泣いた事も何回もある。 〈ふーん。そのほか何、あーそうか。多治見も今だったら中央線で近いけれど昔は名古屋から遠かったね。まだ汽車だったね。蒸気機関 車シュッポ・シュッポ。僕あれね小学校の時汽車だった。〉 九州へ帰る時ね、その時、今みたいに新幹線がないから鈍行の夜行列車。 〈何十時間かかるわな。ふーん、倒産して長崎に戻ってどうしたの?〉 戻って、しばらく親戚の家でね漁師、イカ船に1年くらい手伝いにやっていました。 〈あ、ほんとう。それも大変だったでしょう。〉 はい。 〈それ朝早くから?夜中から?〉 夜中からです。夜6時頃からあって、朝、夜明けの5時頃までやっていました。 〈その船にずっと乗っているんでしょう。〉 はい。航海で半年に一回くらい帰ってくるんですよ。 〈あーほんと。どこまでいくの?〉 だいたい近海というのか、朝鮮の手前の所までね。 〈稼ぎはいいの?それは。〉 いいですけれど、やっぱり、それは親がおれば親のところに給料が全部いくんですけれど、独身の場合は会社が給料の半分貯金してくれ るんですよね。それでもやっぱりつらかったですね。その後やっぱり長崎にいると友達がやっぱりちんぴら、やくざなものだから 〈悪い友達がいるから〉 悪い友達と付き合ってはいけないと思って名古屋へ出てきた。それから今の建築の仕事、大阪へ行ったり、青森に行ったり、富山、新潟 、北海道、てんてんと回っていましたね。 〈名古屋へ戻ったのはいつごろ?〉 ちょうど大阪の万博が終わって4か月くらい後からですね。 〈何か一番覚えていることない?名古屋に戻ってきて。〉 名古屋へ戻って来たのはやっぱり、何というの、M建設のこと思い出す。 〈何、それ。M建設って。〉 飯場。 ◆以下、次号に続く 「ももちゃん便り」目次に戻る |