典礼による学び(2)

神言会 修練長 市瀬 英昭


 感謝の祭儀の構造とその意味を考える前に、「信仰の伝承」ということについてごく簡単に触れておきたいと思います。私たちはある 事がらを人に伝えようとするとき、普通は言葉を使います。そしてそこでは話し言葉書き言葉といった狭い意味のことばから「からだが 語ることば」とか「沈黙のことば」といったより広い意味のことばまでが使われることになるので、それらの理解のためにはその「文法 」を把握していることが前提になります。もしそうでなければ、せっかくのメッセージもその「意味」がわからないということになり、 そこで使用されることばは空を打つだけになります。
 典礼祭儀の中心に据えられる「過越秘儀」と言われるときの「過越し」がすでに、現代日本の用語ではなく、旧約聖書の文脈体系つま り「文法」か゜わからなければ意味をなさない言葉です。別の言い方をすれば、言わんとする内容は文脈が変化すれば別の表現をとって もよいと言えるのです。なぜならば私たちの先輩、初代のキリスト者たちは自分たちが経験したイエスによる救いの出来事の意味と力を 、かられにわかるような仕方で、「エジプト脱出」の出来事を記念する祭儀などの際に使われた用語を使いながら祝い、伝えようとした のですから。だからまず、すべての人々にかかわる救いの源となると信じた家の出来事を彼らがどういった形式で表現したのかを落ち着 いて見てみることが大事だと思われます。一つの形式はそれがどんなに優れたものであってもある内容を表現しようとする多くの可能性 の中の一つである、ということに留意していなければなりません。それはある形式が一度確立されるとあたかもそれが絶対であるかのよ うな印象を与えてしまう傾向にあるからです。形式は内容の見える表現であるという意味で非常に大切そして不可欠のものですが、それ は同時に一つの「解釈」であるということも忘れてはならないでしょう。「神秘はただ ひとつのことばに閉じ込められはしない………すべて解釈というものが価値を持つのは、ただそれが基本の出来事との関連を強固に維持 する限りにおいてである」と、あるカトリック聖書学者も言っています。この基本の出来事をよりよく理解すること、そしてそれによっ て生かされることが大事とされるべきでしょう。そのための典礼祭儀なのです。
 イエス・キリストの出来事に出会い、生きかたの方向を自分自身から神へと変えようとした人たちは、その体験を振り返りまた伝えて いく場として、つまり、イエスを想い起こすためにその名による集会を始めました。キリスト教の誕生期の始めにあったものが正典や教 義ではなくて「パンを裂く式」と呼ばれるこの「集まり」であったことを確認しておきましょう。さて、新約聖書の「最後の晩餐」の記 事はイエスが実際にどう生きられたか、その頂点を印象深く記しています。つまり生前のイエスの全活動、特にいやしの奇跡に見られる ような困難にある人たちへ自分自身を差し出して生きられたその生きかたが晩餐記事の言葉とシンボルに結晶させられているのです。そ の意味で「感謝の祭儀」理解が、イエスの生と十字架死そして「復活」と切り離された形で、祈りの文句とか司式者の動作とかの詮索に 終始するのは正しいとは思えません。それらが表現の大切な要素であるとしてもです。この当然と言えば当然のことを間違うと、言うな れば「指を見て、月を見ない」という滑稽なことになりかねないと思います。
 感謝の祭儀は「この」イエスを思い起こす祭儀であり、同じにイエスがその力に満たされて働かれた「神」に感謝と願いが捧げられ、 その中で私たちをも彼のような生きかたに導こうとする祝祭です。イエスが新しく始められた喜ばしい生き方を受け、咀嚼し、伝えてい く学びの場と言えると思います。そこにおいていろんな苦労も腹の底に喜びを持ちながらそれらを乗り越えていけるように変えられると き、この祭儀・祝祭はその本来の意味を発揮したのだと言えるでしょう。そして大切なことはこの学びが単に知的に了解されるだけでな く、私たちのからだにおいてなされることです。典礼祭儀は公開講演会ではありません。私たちがからだをもって、ということは私たち のナマの生活を、悩み、悲しみ、希望、喜びをそのまま引っ提げて神の前に出るなら、必ず進むべき方向が示され力が与えられると信じ ていいでしょう。もし、このようなことが実際に起きていないとすれば私たちの典礼参加は「どこか間違っている」と言わざるを得ませ ん。祈りとパン裂きという初期の集会は、歴史の流れの中で、地理的文化的な違いに応じながらそれぞれの場でさまざまな展開をしてき ましたが、基本的には次のような骨格をとって定着したようです。
 
  −−1.呼び集められる ←
  | 2.神のことばを聴き、応える
  | 3.パンとブドー酒の聖別とその共食
  −→4.解散させられる →
 
 では、集められてはまた散っていくこの一大円環運動の中で、どのように信仰が表現され、養われ、そして伝えられていくのでしょう か。


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