「参加する仏教(1)」
初めての炊き出しで感じたこと

真宗僧侶 山田蓮孝


 昨年12月、知人より「日雇い労働者の写真展が栄であるから一度足を運んでみませんか?」という内容の葉書を頂き、その展示場に出向いたのが縁で、竹谷神父様をはじめとするカトリックの関係者の人々、そして日雇い労働者及びホームレスの人々との交流が始まった。
 最初の炊き出しの参加は大晦日だった。今までに携わった事のない活動だけに現場に行くまでは不安があった。その不安とは、日雇い労働者・ホームレスの人々は汚れた服を着用していて全身から鼻にツンとくる異臭を放っているのではないだろうか、何かいいがかりをつけられるのではなかろうか……という自己内の偏見に基づくものだった。
 現場に行ってみると、そのような異臭はほとんどなく、いいがかりをつけられることもなかった。私はこの時、己自身が異生の者であることを了解した。(「異生の者」とは自と他を分離して生きる者、言い換えると自分と他者との間に共通性・共感性を認めない者と表現できる)状況が変化すれば、私もホームレスになる可能性を有している。その時、異臭を放つ衣服を着続ける事が出来るだろうか、そして誰かれかまわずにいいがかりをつけるだろうか、その事を考えると恥ずかしくなってきた。
 もうひとつ現場で感じた事がある。それは、我が内なる高上がりである。
 雑炊を配っていると、「メシが少ない。俺は腹が減ってるんだ!もっと沢山よこせ!」と怒鳴る人がいた。
 私は腹が立った。
(何を言うか。文句言うな。我々支援者が炊き出しをしてやってるからお前はメシが喰えるのではないか。少しぐらい有り難いと思え!)と、内心思った。
 その瞬間、ハッと気付かされた。
(おっ、又高上がりが出たな。空腹ならば私もイライラすることはある。その事に共感せずに”俺がしてやってるんだ”と、思い上がってしまったな。それにあの人が置かれている社会的立場、又人間に階層をつくり出す社会構造から受けるストレスについて何も考えなかったなぁ。そして一番始末の悪い事は、「人を救ってあげましょう」という気持ちが私の内にあることだ。この気持ちこそが人間を救う側、救われる側(言い換えると、力のある人、かわいそうな人)に分けて、支配・被支配の関係を正当化する論拠なのだ。もちつもたれつ、困っている時はお互い様という平行関係を私は忘れてしまっていた。)
 他者は自己の姿に気付かせて下さる光だという言葉が仏教にはあるが、炊き出しの現場に参加して、その言葉を実感した。 合掌


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