巻頭言

典礼による学び(9)

神言神学院 院長 市瀬 英昭


 開祭、ことばの典礼に引き続いて「感謝の典礼の部」が始まります。ここは三つの部分から構成されています。まず、ささげものの準備、次に、ミサの頂点と言われる「感謝の祈り」(奉献文)、最後に、パンとブドー酒のしるしのもとキリストを分かち合う式が来るという展開になっています。準備の部分でささげものが祭壇−そこは感謝の典礼の中心的場所―へと信徒によって運ばれます。ものに託してささげるのは私たちの心なのだということをここで思い起こしたいと思います。ささげものの上に「大地の恵み、労働の実り、私たちを生かすいのちの糧である」と司祭は宣言します。ローマ典礼のこの奉献の祈りはエコロジーの神学の観点からしても非常に優れたものである、と他教会から評価されているものですが、キリスト信仰の精神的な次元だけではなく物質的な次元を非常に重要視するこの感覚を大切にしたいと思います。ちなみに、この祈りに先立って司祭はブドー酒の中へ少量の水を加えます。これは元来、ブドー酒を水で割って飲むという実際的な機能だけを持っていた訳ですが、これに神学的な解釈が加えられることになります。つまり、それはキリストの捧げに私たちの捧げをあわせるシンボルであるとか、キリストにおける人生と神性との一致のシンボルである、とかいう解釈です。ちなみに後者のような解釈の線から今度はキリストの神性のみを重視する立場の教会ではブドー酒に水を加えることはしないという典礼様式が取られることになります(アルメニア典礼)。このように一般的で日常的な動作や物が神学的あるいは信仰のこととしての意味付けがなされたり、その意味付けが時代とともに変化したりという事例が典礼の歴史にはあって興味深いものとなっています。もっとも、あまりに恣意的な意味付けは自然に淘汰されていくようです。これに対して、イエス・キリストの人類や世界にとっての意味を表現できるようなシンボルや意味付けは現在の私たちにとっての力あるものとなっています。自然的な現象である「虹」が神と人との約束のしるしとなったり(ノアの契約)、人間の書いた聖書のことばや日常的なパンやブドー酒がキリストの愛を担うかけがえのないものとなった私たちを生かし生き返らすというような出来事は聖書や典礼祭儀の中に満ちています。
 「反復は常に差異を伴う」と言われるように、同じ式次第や同じ言葉であってもそれらは常に何か新しい体験を与えて私たちを励ましたりいやしたりするようです。私たちの側に求める心がある限り。
 こうして祭壇の上にささげものが準備され、「感謝の祈り」が始まります。


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