○ 今回は、名古屋のホームレスの人々に炊き出しの支援をしている、竹谷先生のお話でした。今まで、私はホームレスの人々は失業してどうにもならなくなった中高年の男性か、もしくは、今の世の中に嫌気がさして、それで、家も家族も捨ててきた、言ってみれば、現代の世捨て人みたいな人がほとんどであろうと考えていました。しかしながら、今回の竹谷先生の話を聞いて、最近のホームレスには私たちと同年齢の若者がだいぶ増えてきているということを知り、その事実に驚かされました。それ以外にも、高齢者で家族から厄介者扱いされて家にいづらくなった人や、DV被害者の方もホームレスとなって家から逃げてくるということを知り、今まで一方的な目でしか見ていなかった自分の視点に気づかされることになりました。 そして、竹谷先生のお話全体から感じられたことですが、ホームレス虐待であるとか、ホームレスの人々を行政が厄介者払いすることであるとか、これらのことはすべていじめの連鎖であるという考え方から起きているというものでした。自分より弱いものを見つけ、それらをいじめることで自分の優位性、価値を見出そうとする、これがいじめの論理であり、一連のホームレス虐待の背景もそこにあるのではないかと竹谷先生はおっしゃってみえました。確かに、その考えは一理あると思います。そうすると、最近、ホームレスの人々への虐待事件が増えているのは、まさに日本の社会全体が病んでいるひとつの表れではないかと私は感じました。その中で、竹谷先生であるとか、南山大学の炊き出しサークルの辻さんといった方々は、ホームレスの人々と普通に同じ人間同士として会話し、また、彼らと信頼関係を築き、支援ではなくお互いに支えあっているという相互関係で付き合ってみえる。本当に強い心を持っていると感じました。辻さんが言ってみえた、「ホームレスの人々が炊き出しに来るのは、ご飯を食べに来るというより人との関わりを欲しているから」の部分が私にホームレスの人々がそれぞれ人生をもった一人の人間であるということを思い出させてくれました。ホームレスの問題は確かに難しい問題であるし、また、いつまでたっても終わらない問題のひとつであります。それでも、少しでもこの状況を変えようとも真正面から向き合い、そして、がんばっている人がいる。私も、これからこの問題に目をそらすことなく少しでも考えていくことから始めていきたいと感じました。 ○ 今日の講義はホームレスの人を支援する活動に携わっている人の話であった(名前忘れてしまいました)。氏はホームレスの人の現状や、被害の状況や名古屋市の調査のずさんさを指摘しておられた。われわれはこういう問題、例えばホームレスの人たちが夜間見知らぬ大学生に襲われて殺される、またその危機感に悩まされる、ことを単純に「襲った人たちの気が知れない」とか言って片付けはできない。氏はいじめのことにも言及していたが、私は「いじめられっこはいじめっ子」ということを聞いたことがある。これは私も実際に見たことがあるのでわかるが、まさにいじめが連鎖していくような感じを抱く。そしてみんなのいじめを背負った子が「自殺」「殺人」「鬱病」となる。要するに社会のゴミ箱のような感じ、である。例えば金持ちがいる。そうすれば当然貧乏人がいる。貧乏人は歴史的に見ても搾取される側、社会のゴミ箱である。そして現在、ホームレスの人たちは物質的にも精神的にもゴミ箱になっている。この人たちを果たして我々は責めることができるのであろうか。 責める事自体がいじめである。あいつらはクズだ、といった時、おそらく我々はすっきりしている。自分の自尊が感じられるのであると思う。我々、と書いたが、実際は「世の中に不満を持つ我々」である。私は人生を楽しんでいれば、いじめるような感情を起こさないと思う。 ホームレスの人たちとの交流を通して人間的なかかわりを持ったと語る大学生の話を聞いた。「顔のない人たち」という言葉が印象に残った。今我々に重要なのはこの人間同士のかかわり、であると思う。「私を認めてもらって、相手を認める」ということである。この不足が、現代のような問題を引き起こす原因の1つであると考える。本で読んだのだが、「相手がどれだけ働くか、自分に何をするか、ではなく、相手が誰であるか」という繋がりこそが必要である。それは「誰であるか」と言ったとき、それは変換不可能な「その人」を求めているからである。 日本では今、「勝ち組」「負け組」という恐ろしく狭い両極端な価値観の中で、人々はそれ相応に不満を抱き、それを弱者に向ける、という文章を読んだことがある。それは簡単に変えられるものではない。なぜならそれはグローバル化しているからである。じゃあ我々にできることは何か。それは人にストレスを与えないようにする、ということぐらいだろうか。この問題を根底から解決するには、社会構造を変えるぐらいのことをしなければいけないと思う。ストレスに負けない方法、ストレスを他人にぶつけずほかに昇華させる方法はいくらでもある。ただ人は面倒くさがって、それを実行しないだけである。人にストレスをかけない、自分をストレスに負けない位強くする、それだけで何人のホームレスの人たちが救われるかわからない。 ○ ホームレスをしている人のために炊き出しをしているサークルがあることを知って驚いた。どれくらいの人数で、どんな雰囲気のサークルなのだろうと関心をもった。ホームレスをしている人の顔をじっくりと見たことはないけれど、暗い眼をしているなと思ったことはある。帰る場所がないというのは想像がつかないほどつらいものだということがわかる。日本にはホームレスはいるがスラム街はないように思う。竹谷さんの話をきいていると日本にもスラムのような場所をつくればよいと言っているように聞こえた。ホームレスをしなくてはならない人がいなくなるのはいいことだが、日本にスラムのような場所ができるのはいけない。ホームレスの数を減らしていくことは必要だが、なるべく地域と隔離せずその輪のなかで問題が解決できるのが理想だと思う。 ○ 日本は世界中でも金銭的にはかなり裕福な国であり、また最も食べ残しの多い国でもあるという。それにもかかわらず、この国においてなぜホームレスの数は増え続けているのだろうか。 それは第一に、日本の社会に原因がある。さまざまな工場、職場において機械化、コンピュータの導入が進められ、労働者の数は以前に比べて格段に少なくてすむようになった。それにより労働力の削減がなされ、数多くの労働者たちが行くあてをなくしたのである。つまり、ホームレスの人たちは自分からなりたくてホームレスになったわけではなく、社会によってそうさせられたのである。実際に、今でも多くのホームレスの人たちは再就職先を探しているが、中高年の再就職は非常に難しいのが現状である。 そして第二に、居場所がないということに原因がある。ホームレスの人の中には、家庭において家族に邪険にされ、居場所がなくなって家を出てしまった人や、ひどい家庭内暴力を受けて家に戻れなくなった女性などもいるという。先にも述べたことだが、ホームレスの人たちは自分からなりたくてそうなっているのではない。この場合も、家にいることによる精神的苦痛や肉体的苦痛に耐えられなくなってホームレスになってしまったのである。 つまりこうしてみても分かるとおり、ホームレスだからといって決してほかの人と違うわけではないのである。多くの人はホームレスの人を「ただの怠け者」だとか「汚い人」といったように単純に括ってしまい、その一人一人の人間性を見ようとはしない。しかし彼らはもちろん人格ある一人の人間なのであり、ただ怠けているわけではなく、また好き好んで汚い格好をしているわけでもないのである。私は何年か前に、偶然一人のホームレスの人と話し込んだことがあるが、話を聞く限り彼はとてもまじめで、またとても思いやりがあった。もちろん、私もまだホームレスの人をきちんと理解できているとは思わないが、こうした人間同士のふれあいを通して分かり合えることはたくさんあるのではないだろうか。今回講義をしていただいた南山大学の炊き出しサークルの活動を通して、少しでも多くの人が人間同士のかかわりあいの重要性を理解できるようになれば、ホームレスの人々を蔑み、暴行を加えるといった、非常に腹立たしく悲しい事件も減るのではないかと私は感じた。 ○ 今回の講演は、初めFr.竹谷がホームレスについてお話してくださった。後半は南山大学にあるアバンギャルドというサークルの辻さんがホームレスへの炊き出し活動についてお話してくれた。 まず竹谷神父のお話でとても興味深かったのがホームレスに対する若者の暴力やサラリーマンなどが浴びせる罵声は社会や生活におけるいじめの連鎖であるという見識であった。これまで辻さんのようにホームレスとは汚く臭く顔のないただの概念・存在として考えていたわけではなかったが、率先して考えそれに対して行動にでる対照ではなかったのは事実だ。これは今まで行動することを惜しみその勇気が出せなくて一生懸命生きてこなかった証だと思うが、しかしこれらの自分のなかでは悶々としていた問題が自分たちに身近ないじめとその連鎖に関係していることが、ホームレスに対して今まで無関心で何も行動に移せなかった自分を気づかせてくれ、恥じらいとこれから何かせねばという意欲と勇気がわいてきた。 実は高校時代に僕はあるとき名城公園のホームレスの人と少し話す機会があった。その人は60くらいの人だが、戦後満州から船の貨物室に忍び込んで日本に逃れてきたという話を、つらそうな顔せずに僕と僕の仲間に話してくれた。世の中こういう生き方もあるんだなと感じたことを覚えている。当時の無知ゆえもっと複雑なことは考えることができなかったが、何とかせねばという感情より、戦争を経験してその他にもつらい人生を過ごし今ではホームレスしている人もいれば、そういう人たちのおかげで存在する今日の社会で手前の都合のみ考え無意味に生きる人もいることに強い矛盾と憤りを感じた。 その当時自分は結果として何もしなかったわけだが、今回アバンギャルドの活動に参加する機会をもらえてとてもうれしく思う。ぜひこの活動に参加してもう一度再考してみたいと思う。これでやっと行動に踏み切れると思うと少し緊張しわくわくする。今日大人の話をあまり耳にする機会のない僕らにとって今回の活動はいろいろな人生と接する良い機会となると思う。 ○ 私は、ホームレスの人々に対して偏見の塊だった。 今回の講演によって、そのことに痛烈に気づかされた。講演の前半部で尋ねた質問が、どんなに偏見的な見方に満ちていたかを考えると、恥ずかしくなるくらいだ。 しかし、講演を聴く前の私がそうであったように、ホームレスの人々に対する偏見は一般の人々にも強くあるように思う。橋の下や、公園にあるダンボールで造られた家を見れば、少し恐怖心を抱き、その近くをちょっとでも避けて通ってしまう。ホームレスの人々が座っていれば、できるだけ目を合わせないように通り過ぎてしまう。なぜ、彼らがそのような公共の場所に居を構えているのか、と言いつつ、それは質問ではなく、そこにいるべきではない、という警告に近い意味を含んでいる。そして、無意識のうちに、彼らに対して恐怖心と同時に弱いながらも憎悪感までをも抱いてしまう。このようなことを今まで私はしてきてしまったし、多くの人々が同じようなことをしてきてしまっていると思う。実際は彼らが私たちに直接に何かをしたというわけでもなく、ただ彼らはそこで生活を営んでいるだけなのである。むしろ、時々、彼らが空き缶を拾って歩いている姿を見るが、お金を得るために行っているのかもしれないが、それも一つの社会貢献をしているのである。 今回の講演によって、ホームレスという存在は、資本主義、利潤第一という日本の社会システムによって作り出されてしまったものであり、ホームレスの人々を通して、現在の日本の社会を見ることができる、ということを知った。また、社会によって作り出されてしまったにもかかわらず、そのホームレスの人々は、その社会にも偏見の目で見られ、援助されることはほとんどなく、むしろ邪魔者扱いされていることもあるようである。彼らはただ毎日毎日を生きるためにそこで頑張っているにもかかわらずだ。 今回は、このようなことを講演という形を通して知ることができた。この講演を通して、ホームレスの人々を、今まで以上に人としてみることができるような気がするが、より彼らに対しての正しい理解を得るために、今後機会があれば、そのような立場にある人々と直接会話を持ったりしてみたいと思っている。 ○ このお話を聞いて私は今までホームレスの方々に対して、まったくの無理解であったことを恥ずかしく思いました。私は竹谷さんの言われていた、無抵抗な人を一方的に殴るような若者とは違いますが、ホームレスの方々への炊き出しを冷たく見ていくサラリーマンの人々と同じ感覚でホームレスの方々を見ていました。「なんで働いてお金を稼がないの?なんで公共の場に堂々と居座っているの?法律違反じゃないか。」これはいつも私がホームレスの方をみて思うことでした。ただ法律違反をしているだとか、働いていない、なんか変わってて怖い人、そんな現在の上っ面ばかり見ていて、彼らの人生、働けない状況、そして現在の心境、など背後に隠されたものを見落としていました。私は本当にこの講義を聞いてよかったと思います。この講義を聞いていなければ、私は知らず知らずのうちに弱いものいじめをしていたに違いありません。そして社会的に弱い立場の人間を平気で排除しようという動きに加担していた違いないと思います。 名古屋市が仮家を作って、ホームレスの方に住処を提供しようとしたことは、さほど間違っていないと思います。なぜなら独立して社会に出て行くためには、一時しのぎでも生活基盤となる安定した住居と食事の供給が必要だからです。そしてホームレスの方はやはり社会に出て行くべきだと考えるからです。しかしそれはホームレスの方々の望みや話を親身に聞いて、役所とホームレスの方々との間に人間的な信頼関係が生まれてからでなくてはならないと思います。ただ一方的に法律違反をしているから立ち退きなさいというのではただ憎しみや不信感を増すばかりです。炊き出しといった活動を通じて、お互いを理解しようという働きかけがなにより重要なのだと感じました。 ○ 現在、日本全国には約3万人、名古屋市には約1800人のホームレスがいると言われている。しかし、上記の数字が目視での調査からの数字であるため、実際は、もっと多いであろう。ホームレスの中には、家族との関係から、家に居られない、または居たくないという若者が増えてきている。そして、ホームレスが増えていることに伴って、青少年によるホームレス襲撃事件が相次いで起こっている。ホームレスの人々は、人との比較から自分の価値を見出す人々が多い日本社会からのいじめの連鎖で、差別を受けている。日本国憲法第25条「すべての国民が健康で文化的な生活を送る権利がある」という条文にかなり反している事実がここにはある。 では、なぜホームレスとなってしまう人々が増え続けているのだろうか。私はホームレスの人々を、資本主義社会が生み出した産物だと思っている。現在の日本の失業者数は、約313万人であり、そのうち、15〜24歳である失業者の数は、男性約36万人、女性約27万人の計約63万人である。資本主義社会になり、産業が発展していくとともに、労働力の減少が行なわれ、失業者が増えてしまった。お金がなくなり、家を失った人々はホームレスとなってしまったのである。そして、生きていくために必要な水や排泄のためのトイレがある公共の場所にホームレスが集まってしまうのである。公共の場に居るみすぼらしいホームレスたちを見て、さらに人々は差別感情を持ってしまい、ホームレスは社会から排除されてしまう。ほかにもいろいろと理由はあるだろうが、日本の社会構造がホームレスを作り出してしまった原因の1つではないかと思う。また、日本にはホームレスだけでなく、パートや派遣を含むフリーターなど、生活が不安定な人々が沢山いるという問題も抱えている。すべての人々を救うことは難しいかもしれない。しかし、この平和な日本において餓死で死んでしまう人が存在するということを、国民一人一人が真剣に受け止めて、この問題をどう解決していくか考えていくべきである。ホームレスも自分たちと同じ一人の人間である。自分の命を大事にする権利もあるし、差別されるいわれもない。ホームレスの人は孤独な人が多いと聞いた。この問題を通して、社会全体で相互理解、心の交流をし、お互いを受け入れていくべきであろう。 私の中にも、やはりホームレスの人々は怖いという思いがある。話をしたこともないのに見た目や雰囲気だけで遠巻きにしてしまう。今回の話を聞いて、ホームレスの人々がボランティアの人とのふれあいを大切にしていることを知って軽く驚いた。やはり人間というものは誰かを求めてしまうものかと、ホームレスの人も同じ人間なのだと改めて思った。ただ単に怖いと思うのではなく、ホームレスの人々も一人の人間であるということを心に留めて、ホームレス問題を考えていきたい。 ○ 今回は、ホームレスの人々に寝る場所と食べるものを与えて、社会復帰を促すべきだというものであったが、私は最後までこの意見に納得することはできなかった。 確かに、講義の冒頭に述べられたように、ホームレスであっても私たちと同じ1人の人間であり、その人たちを襲撃することは勿論許しがたい行為であると思う。また、南山大学の方がおっしゃたように、たきだしをしたときに、ただ単にご飯がほしいから来るのではなく、孤独をかき消し、人と関わりたいから来るんだという話には、へぇと思い、やはりホームレスの人でも寂しいと感じていて、私たちと同じなんだと感銘を受けた。それに、彼女たちがやっていることは一種のボランティア活動として、私は全く否定しないし、ホームレスの方たちの孤独を軽減し、彼らと心の交流を図ることはとてもよいことであると思う。 しかし、私は、それを公のお金でやる、となると少し違うのではないかと思う。むしろ、ホームレスの人たちは町の景観を害しており、邪魔者であるという思いが、まだ私の中には存在している。これは私の中にホームレスに対する差別意識があるということを表徴しているのかもしれないが、しかし、私はこの差別意識は、先生の述べた、黒人や在日韓国・朝鮮人、そして障害者の方々に対する差別とは違うのではないかと思う。人種や障害などは自分の力では変えようがなく、自分と違うからといって差別することは許されず、お互いがその存在を認め合って生きていかなければならない。しかし、ホームレスは違う。私からすれば、彼らは、「日本の産業構造に問題があり、労働力が削減され、自分たちはそれによる被害者なんだ」といって自分たちを正当化しているが、ただ単に、今までバリバリ働いていた自分が今さらアルバイトなんてできない、単純労働なんてできないというプライドを捨てきれないだけなのではないか?本気で仕事をしたいと思うなら、情報誌を見ればいくらでも仕事はある。彼らには、ホームレスでもいいという甘えがあるようにしか、私には見えない。だからこそ、私にとって、公的にホームレスに寝る場所と、食べ物を与えることは論外であり、むしろ強制的にでも、勝手に公共の地に居座ることをやめさせなければならないと思う。 ○ ホームレスは家のない人たちで見るからに汚くくさそうでしょぼしょぼした目をしている。仕事がなかったりしかたのない事情でホームレスになってしまう人がいることは新聞とかで知っている。しかし負け犬じゃないか,とも思う。障害や病気などしかたなくなってしまった人もいるだろう。しかし病気になったときのために蓄えをしてなかったのが悪かったという見方もできる。資本主義である以上働かない物は食えないし当然働かせさえさせてもらえない人もでてくる。だから社会での競争力を身につけるために皆それぞれ工夫しているのである。関係ないことだが今のフリータなんてホームレスの予備軍だと思う。 自分は日雇いの経験をしたことがあるが今の僕の仕送りと同じくらい稼ぐのに月16日働かねばならない。結婚したり子供ができたらほぼ毎日働かねばならないだろう。だがあんなきつい仕事せいぜい40から50代までしか不可能だ。だけど就活に失敗したり今は夢を見たいなどと甘いことをいってフリータに逃げている彼らはこのままいけば30年後には間違いなくホームレスになる。彼らはそのとき40にもなったら日雇いの仕事はきつくてできない,そうすると仕事がなくてしかたなくホームレスになってしまったと言うだろう,それはしかたなくでなく20のときにそうなることを選んだのである。そんなやつらに食事の世話やいろいろするのは正直年金払うよりも納得いかない。だからといってもちろん物を投げたりしていいわけはないが。どんなに好きでなったわけではないとか,社会のせいだとかいわれても納得できない。といいつつも今度の炊き出し活動に参加する。正直単位をとるためだがその強制力を通じて本当なら接することがなかったはずの人々と参加して何らかの影響を受けるかもしれない。影響を受けなかったらそれはそれでいいし,とりあえず社会勉強のつもりでやってきます ○ ホームレスへの炊き出しに関しては、それ自体がホームレス問題の根本解決になるわけでもなく、ホームレスの人たちは家をなくしたということだけで、食事が受けられるようになって、やっていて意味のあることなのだろうかと思っていた。けれども、実際にホームレスの人たちのところへ行って活動している辻さんの話を聞いて、わたしが考えていたことにたくさん誤りがあることに気づいた。このレポートでは、そのことを書いていこうと思う。 ホームレスへの炊き出しは、たしかにそれ自体としてホームレス問題の根本解決にはならない。炊き出しによって何が出来るかといえば、それは、人と人とのつながりを作ることぐらいという話だった。ホームレスの人たちの中には、家族からも疎まれ、もしくは家族自体がいないという人が大勢いる。そのために、ホームレスの人たちは常に孤独と戦っている。そんなホームレスの人たちにとって、炊き出しなどで人から声をかけられることは、とても重要なことであるし、他人から自分の存在が認識されているという事実を知るという観点から見ても、意義がある。 次に、炊き出しを食糧としての視点から見ると、週に一回の炊き出しなら、一週間二十一回の食事のうちの一回を支援しているに過ぎないのであり、食糧の支援としての炊き出しは当然ながら、それだけで食いつなげるものではない。つまり、ホームレスへの炊き出しは、食糧支援を主な目的としてやっているわけではないのである。 このふたつの事柄をわたしは認識していなかった。しかしながら、最初に指摘したように、ホームレスへの炊き出しの活動は、今起こっているホームレス問題への対応としての効果は期待できるが、やはり根本解決の手段ではない。根本解決には別の手を講じる必要がある。 今年は、愛知万博が開催されるために、名古屋市が公園からホームレスを立ち退かせようとしたことがあった。ホームレスたちは、生きるために最低限必要な水やトイレを確保することができる公園に集まり、そこを生活の基礎として生きている。名古屋市は、ホームレスは万博が開催される期間のみ、シェルターへ移るように言ったのである。しかし、生活の基盤をすでに公園に持っている彼らは、シェルターから出たあとにどうすればよいかを考えると、シェルターに行くことができなくなってしまう。この名古屋市の対応は明らかに不十分であって、ホームレス側の立場を無視した解決法である。結局、名古屋市は、万博の間はホームレスがいることを諸外国の人たちに知られたくないがために立ち退きを頼んだだけで、ホームレス問題の根本解決のために講じた策ではない。 今回の講演で、ホームレスの人たちへの炊き出しの話や、ホームレス全般のことなどを、多少なりとも知ることが出来、自分もホームレスの方と関わってみたいという気が起こりました。 ○ 今回は、学生とともにホームレスへの炊き出しを行っている竹谷神父の講義だった。近頃、ホームレスに対する暴行だとか、ホームレスの強制排除とか様々なホームレス関連の出来事をテレビのニュースでみかける。竹谷神父が話していた万博のためにホームレスの強制排除というニュースもテレビでみた。やはり自分も名古屋に来る人に公園で堂々と居座っているホームレスをみせるのは恥ずかしいと思うし、名古屋市としても観光地としてこれからアピールしていこうとするのにホームレスは邪魔だろう。竹谷神父のお話を聞いてもその考えは変わってはいない。しかし、ホームレスをなくすことはすごく難しいことだと思う。今いるホームレスをなくすためには地域レベルの活動では無理だろう。例えば、名古屋市がホームレスに対する支援を行っても、他の地域からホームレスがやってきて現状より数が増えてしまうかもしれない。 ホームレスに対する政策は、アジアの国のスラム政策に共通しているところがあると思う。例えば、インドなどではスラム住民に対する様々な政策が立てられているがあまり成功しなかった。失敗の要因は、スラム住民をその政策に巻き込まなかったこと、長期的視点が欠如していたこと、企業、NGO、スラム住民、国、自治体といったアクター間の連携が不十分であったことなどがあげられる。ホームレスに対する政策ではホームレスたちの巻き込み、長期的な視点で考え、様々なアクター間の十分な連携などが必要となると思う。 ○ 今回はホームレスの方々の支援をなさっている竹谷さんのお話を聞くことが出来た。僕の地元は大阪なのだが、大阪は名古屋よりホームレスの方が多く繁華街に行くと必ずといっていいほどホームレスの方を見かける。また通学に利用していた電車からはあいりん地区という日雇い労働を求める人たちが多く路上生活をしている地域を毎朝見ていた。そのため中学高校の頃からホームレスの問題は身近に感じることが多かった。僕のホームレスの方々に対するイメージとしては「汚い」「怖い」「かわいそう」といった見下したようなイメージが非常に強くあった。このようなイメージはおそらく社会の多くの人たちが抱いているものだと思う。路上生活を強いられるということは社会の敗者であるというレッテルがホームレスの人たちに張られている。こういうことから行政をはじめ社会のホームレスの方々に対する風当たりが厳しいものになっている原因だと思う。 ではこのような人たちに対して社会は何をすべきなのか。確かに公園など公共の場所に無断で住み街の景観を害しているのは公共の福祉に反する行為である。またそのような生活を強いられるのは少なからずその人自身の責任もある。そのためホームレスの人たちに対して行政が厳しい処置をとることは当然だとする意見もある。しかし僕はそうは思わない。たとえどんな事情で路上生活を強いられるようになったとしても、一人の人間として最低限の衣食住は保障されるべきである。そのために行政は最低限の生活を彼らに提供しなければならないと思う。それと同時に社会のホームレスの人たちに対する意識も変えていかなければならない。このためにはホームレスの方々自身が努力しないとはじまらないと思う。前にも述べたようにホームレスに対するイメージとして「怖い・汚い」という社会の外の世界の存在というイメージがある。ホームレスの人たちはもっと社会に出て、自分たちの存在を社会の人たちにアピールし、自分たちも社会の一員であることを知ってもらうことが必要だと思う。 ○ 今回の講義のテーマはホームレス。ホームレスを見たことがない人はいないだろう。川にかかる橋の下。公園。駅の周り、そして構内。その点から考えて、彼らは私たちにとって身近な存在であり、私たちの生活からは切っても切れない関係にあると言える。しかし、その反面、私たちは腫れ物を触るように、彼らについては触れようとせず、避けて、そして距離を置いてきた。 ホームレスという存在を生み出す原因はなんであろうか。そもそもホームレスという人は、今の豊かな日本の社会において、本来存在してはならない存在なのである。それにも関わらず今でも多くのホームレスが日本の各地に点在するのは、やはり社会の仕組みが原因なのである。彼らの多くは失業者である。諸外国との競争に付随して起こる国内企業同士の競争がもたらした結果だ。リストラによって失業したり、外国人を安い賃金で雇うことで日本の労働者の需要自体が低下したりしている。 またホームレスの人々はただでさえ困難な生活を送っている上に、世間からの迫害まで受けている。ホームレスの人が怪我をさせられる、あるいはさらに酷い場合殺されるという事件が、今の世の中では少なくない。これはホームレスの社会的立場の弱さが鍵になっている。いじめや迫害を受ける者は、大抵立場の弱いものである。立場の強いものが、さらに立場の強いものから与えられるストレス等を、自分より立場の低いものをいじめたり、傷つけたりすることで発散しようとするのだ。こうしていじめや迫害の対象は立場の強いものから弱いものへ、さらに弱いものへと繋がっていく。 彼らはいつでも攻撃される側である。誰でも攻撃されるのは嫌なものだ。だからこそ、こうしてホームレスについてお話を聞く機会を得た私たちだけでもせめて、温かく接する必要がある。そこから、少しずつ周りへと広まればいいのだ。例としては、紹介があったサークルのアバンギャルドが挙げられる。ホームレスが温かく見守られている光景をこの社会の人々の目に焼き付けるのである。人間の気持ちはそう簡単には変わらない。しかし続けていくことで少しずつ、でも着実に人々の意識は変わっていくと思う。この方法ではホームレス問題の根本的な解決にはならないが、それでも何か自分にできることをするというのは、本当に、大切なことである。 ○ 僕は正直に言うと、ホームレスが好きではない。ホームレスと言えば、汚い服を着ている、いつも寝てばかりいる、風呂にも入らない、臭い。などのイメージがある。小さいときに、親にホームレスになってはいけないとも教えられた。 だが、今回の講義で、少しホームレスに対するイメージが変わった。ホームレスの人でも、孤独な生活には耐え難いもので、炊き出しの料理をもらいに来る人は、ご飯にありつきたいというよりも、人間関係を持ちたいと願っているということを聞いたからだ。辻さんという南山大学の学生さんが言ったように、僕もホームレスの人のことを、「顔が無い人」だと思っていた。だがそうではなく、ホームレスも僕たちと同じ人間で、話を聞くと普通の人なのだ。また、ホームレスの中には、もともとはちゃんと仕事をしていて、普通の生活をしていた人も多い。つまり、極端に言えば自分もホームレスになる可能性があるということだ。だから、僕はホームレスの人が生まれることは、必ずしもホームレスの人を責めることはできないのではないかと思った。 ホームレスに炊き出しをする行為は、ホームレスの人の立場になって考えてみると、やはり嬉しいものだろう。ホームレスの生活では暖かい飯にありつくことはあまり無いだろうし、人間関係をもつことができるのは人間らしい営みをもてることになるだろう。もし、一日に一度も誰とも口をきくことなく毎日が過ぎていくのなら、僕は頭がおかしくなってしまうかもしれない。なので、炊き出しのボランティアは素晴らしい活動だと思う。 だが、忘れていけないのは、ホームレスは公共の場にビニルシートなどで家を作り、生活し、景観を害し、近隣住民に迷惑をかけているということだ。僕はホームレスの人に、ちゃんと働いて、住むところを見つけて、自立した生活を再び送ってほしい。 ○ 若者たちのホームレスの人々への暴力行為に対して、教室の人々が、「ひどい」や「許せない」という、事象の表層のみを見た、感情的反応しかしていないことに違和感をおぼえた。確かに、若者たちの行為は倫理的に許されないものである。しかし、そこで思考が止まってしまうと、問題の根本的解決には至らない。なぜ若者たちがその行為に及んだかという社会的背景まで突き詰めて考えないと、適切な解決方法を見つけられない。物事の裏まで考える習慣をつけることが求められていると考えられる。 では、ここからはその社会的背景について考察してみよう。 ひとつに、 ○ 橋の上から、ホームレスをつき落としてしまったZERO。私は彼の気持ちが少し分かる。私も、小・中学校のときに「いじめ」にあっていたからだ。しかし、幸いにも私のいじめは高校でなくなった。なぜなら、私はみんなと同じ高校へ行きたくないために勉強して、みんなとは別の高校へ入ることができたからだ。私にとってみれば、人生のリセットだった。誰も私の過去を知らない人たちと学校へ通えることがどれだけ楽しかったことか。今思うと、そのときあった「いじめ」のおかげで、弱い立場の人の気持ちが少しは理解できると思う。「いじめ」によってたまった悔しさを私は勉強にぶつけることができた。「けんかでは負けるけど、絶対、勉強では負けてたまるか!」と自分を誇れるものがほしかったのだ。まったく自分に自信を持てない環境の中、なにか1つでいいから自分の生きている意味を探し、それにすがりたかった。そして、私が見つけたものは自分の生きている価値を偏差値の高さで証明することだった。今、思うとほんとに馬鹿げていることだ。自分より偏差値が低い人でも、尊敬する人はたくさんいる。偏差値よりも人格のほうが大切だと思う。でも、当時はそんなこと考える余裕もなかった。学校の帰り際に、いつも私を待ち伏せするからだ大きい奴らがプロレス技をかけてくる。奴らを喜ばせるために、技をかけられたときのリアクションをいかに大きく、痛々しく見せるか必死だった。毎日がむなしかった。なにか面白いことはないか、いつもひとりで探していた。BB銃で猫や近所の小さな子共を撃ったりしたこともあった。周りの人からみたら、あほのように思えるかもしれない。でも、私は違っていた。正直、弱いものをいじめることは、楽しかった。とにかく、そのときの私は、本当にいじめることに集中していた。自殺することも考えた。自殺するときの遺書に私をいじめたやつの名前を書いて、慰謝料をもらうことで復讐を図ろうとした。でも、私には自殺する勇気がなかった。私を育ててくれた親を、何よりも悲しませたくなかった。ニュースで「いじめ」にあっていた子がナイフをつかって復讐することがたまにある。そのニュースを見ると心の中で「よくやった。えらいぞ。」と今でも感謝している。まるで、私のヒーローのように感じられるのだ。小学校のとき、学校で小刀を買わされたことがあった。そのとき私は、一番高い小刀を買ったことを覚えている。いじめられたときに、正当防衛だと言って斬りつけてやろうと思って、学校に持って行った。しかし、その日に限ってなぜか、いじめられない。本当に不思議なものだ、とつくづく思った。最後に、たけや神父がおっしゃっていたように「いじめの連鎖」を断ち切ることは本当に難しいことです。強い人間でなければ、その連鎖を断ち切ることはできません。しかし、強い人間は「いじめ」をうけません。結局のところ、「いじめ」を解消する努力はできても、「いじめ」を解消することはできないです。ですが、「いじめ」が解消できないからと言って、決してその努力を怠らないでください。私と似たようなつらい経験をする人が少しでも減ることを、祈っています。 ○ 今まで新聞やニュースなどでたびたび若者がホームレスを襲撃するという事件が報道されていたが、なぜ襲撃するのかわからなかった。今回の講義を聞いてその動機(自分より弱い者をいじめるうさばらし)が分かり、誰でも心の奥底にそのようなものをもっていることも分かった。確かに私自身、ホームレスが駅で寝ているのを見ると、かわいそうだと思う気持ちよりこんなところで寝ていて汚いと思う気持ちのほうが強い。それにいじめの連鎖は人間だけでなく動物にもあるのでそのような感情をなくすことはかなり難しいと思う。ホームレスになるのは失業のほかに家に居場所がない、心身障害、DVなどによるものもあると知って驚いた。海外の途上国などで、家もなく食べ物にも困って路上で暮らしている人々に対しては助けたいという気持ちがわく人が多いのに、なぜホームレスの場合は偏見の目で見るだけで終わってしまう人が多いのか。おそらく、ホームレスは仕事をしない怠け者というレッテルがはられているからであろう。私も親からそう言い聞かされてきたし、ホームレスは仕事をしないで生きていけるというようなことが書かれた本を読んだことがある。みながホームレスを怠け者だと決め付けてしまうから罵ったり傷つけたり、行政は小屋を撤去するのではないかと思った。しかし、お金に困って強盗などの罪を犯す人と比べるとホームレスはいい人たちが多いではないかと思う。今回の講義でホームレスについて新しく知ったことが多いが、まだまだ彼らを遠巻きに見ているだけで彼らについて知らないことばかりである。ホームレスをなくすためにどのようなことをすればよいのか、具体的な解決策をとるためにはホームレスについてもっと知っていくことが必要であるから7月に行われる炊き出しに参加してみたいと思った。 ○ 私はこの講演を聴くまでホームレスに対して偏見を持っていた。どんな理由があろうと仕事もせず汚い格好で街中をうろうろされては、多くの人間が彼らに対して偏見を持ち、軽蔑するのはうなずける。実際私は食い逃げする場面をみたり、意味不明な言葉を発しているのをみて、恐ろしい思いをしたことが何度かあった。当然個人差はあり、人に迷惑をかけない人もいるだろう。しかし、自己責任という価値観が支配的な世の中なので、多くの人がホームレスというひとくくりでみて、偏見を持っている。では、ホームレスを生み出している原因はなにか?一つめは、資本主義の利潤追求がある。利潤を少しでも生み出すために、機械化、外国人労働者の受け入れを行うことで仕事の絶対量が減り、雇用機会に恵まれない人があふれてしまった。二つ目に、人間関係の薄弱である。家はあっても居場所がないという高齢者のホームレス化、またドメスティックバイオレンスに耐えられない女性のホームレス化もあるそうだ。近年一番増えているホームレスの層は、若年層で、これは失業率が高いことが原因であるらしい。辻さんの話でもあったように、ホームレスの人は人との関わりが欲しいのだといっていた。彼らのことを全く知ろうともせず、ただ色眼鏡で見てしまう自分が恥ずかしかった。 |