皆さん、こんにちは 


 私は二十五周年の幹事の務めをやらせてもらった瑞浪教会の柴田です。大雪の雪降りの中、遠路わざわざ祝福に来ていただき本当に有り難うございました。

 さて、皆様に瑞浪教会とはどんな生い立ちか、お話ししたいと思います。教会の歴史は48年になります。現在の教会は三番目に建った教会です。最初の教会は角鹿尚敏というお医者様が自分の屋敷に、自分の金で建てた、十坪の教会です。名前をナザレトハウスと言いました。昭和32年頃出来ました。寺田正規神父様が担当されました。6年間続きました。

 第二番目の教会は、スカボロ会のフラハティ神父さんが元郵便局を教会に改造して出かした借家の瑞浪教会です。この神父様は金持ち神父様でした。親が亡くなって遺産が沢山入ったので、一宮教会を建て、次に瑞浪教会を建てたのです。一宮教会に金を使って、まだ金が余っていたので、瑞浪にも教会を造ってやろうと思われたのです。瑞浪教会で金を全部使い果たされました。20才の私が神父様は金持ちやなあーと思ったのは、私達のおやつがさつまいも程度の頃、教会の食卓台にはリンゴ、バナナ、チョコレート、チーズが盛ってあって羨ましかった。俺達がダイハツのミゼットに乗って喜んでいるのに、神父様はニッサンのブルーバードの乗用車に乗ってみえました。ミサに使うカリスにはダイヤモンドがうまっていてピカーと光ってました。こんな金持ちの神父様が長く居て欲しかったが教会を建てると病気になり聖霊病院に入院されてしまいました。

 それから次から次へと6人の神父様が担当されました。教会家賃は月7万円でした。信者の献金全部集めて月7万円です。家賃を支払いすると0円でした。神父様の生活費は本国カナダから送金してもらわなければやっていけなかったのです。初めの頃は送ってくれてたのが最後の頃には本国からの送金が減ったのか、冬にストーブをたく石油が買えず、凍え震ってオーバーを着てミサに預かった。神父様もやけくそなのか酒を飲んでばかりいてアル中でした。最初のフラハティ神父様と、最後の神父様とは王様と乞食のような差を見ました。昭和50年、ついにスカボロ会は、バイバイと言って瑞浪教会を捨てて去って行ってしまったのです。

 この時、信者は泣きました。神父様もいないのでミサも出来ません。途方に暮れて泣いて落ち込んでいる時、角鹿尚敏さんが先頭に立って、名古屋教区へ行き相馬司教様に、泣き泣きどうか瑞浪教会を無くさないでくださいと嘆願したのです。司教様は私達の心を理解して、私達一人ひとりに慰めと励ましの優しい言葉を掛けて下さいました。それから教区司祭を送って下さいました。それがもし相馬司教様が、スカボロ会のさじを投げたような教会を私は一寸責任持てませんねえー、ちょっと時間を下さい。皆んなと相談しますから、などと冷たい言葉が返って来たら、現在の瑞浪教会は無かったと思います。

 司教様は体も大きかったが、心も腹も大きかったなあーと思います。司教様の励ましの言葉を受けてから皆んな元気が出て、新しい教会を建てようという機運が盛り上がって来た頃、若きたのもしい青年神父寺尾総一郎神父様が赴任して来られました。当時36才でした。神父様と信者一同力を合わせて資金集め頑張りました。あれ以来司教様と親しくなり、何でも相談するようになった。それから司教様が、まず教会を建てる土地を探しなさいと言われ、この現在の土地を見つけたのです。資金集め、資金カンパなどして念願の教会が誕生したのです。これが第三番目の教会、現在の教会が建ったのです。アレルヤ、アレルヤ、神に栄光。神に栄光。でした。

 昭和55年12月21日献堂。あれから二十五年の月日が流れ、愛岐ブロック会議で私が献堂二十五周年をお祝いしたいと言ったら、皆さんが俺達応援するから、やれやれと言われ、この様に盛大な献堂二十五周年ができました。感謝申し上げます。

 小さな弱い瑞浪教会をふり返ると何とか無くならずに、いろいろの人達のあわれみによって生き続けて来た教会です。瑞浪教会をあわれみ教会と言った方がいいような感じが致します。今後ともよろしくお願い致します。長い長い手紙になりましたがこれを以ってお礼に致します。


12月13日夜