竹谷 基 「教会生活とエコ生活」?始め、このテーマに戸惑い、講師のシーゲル神父はどのようにお話しするのか興味があった。私は、多分、その神学的説明をされるのかなと予断していた。というのは、教会というところは、何か取り組むときには、その信仰的理由が求められるからだ。例えば、憲法9条を守ることや核廃絶への関わりを信仰上必要な事と言わなければ、動こうとしないからだ。まあ、説明しても動かないことが多いが。それは、悪しき二元論、即ち、「聖」と「俗」に世界を分け、信仰は「聖」のこと、精神世界のみに関わるのだと教えられ続けられているからだ。だから、教会は政治や社会問題に関わる信徒を、すぐ、「赤」呼ばわりする。正義と平和委員会、あるいは、「解放の神学」が毛嫌いされるのもそれが起因している。 ところが、聖書を読むと、旧約にしろ福音書にしろ「聖」「俗」二元論はない。預言者と言われる人たちは、時のイスラエル王国、ユダ王国の王や政治指導者たちに神に立ち返れ、契約、つまり、貧しい人たちの権利を守れと呼び掛けている、そのため、迫害を受けた。イエスも同様、十字架刑は政治犯としての極刑であった。彼らが単に精神的、宗教的なことを言っていただけなら、そんな目には合わなかっただろう。マザーテレサは後者の典型であろう。だから、好かれる。次の言葉には今の教会の姿が重なる。「貧しい人に食べ物を施すと、私は聖者と呼ばれる。貧しい人にはなぜ食べ物がないのかと問うと、私は共産主義者とよばれる。」(ヘルデル・カマーラ) さて、シーゲル神父の話を聞いて、私は合点した。というのは、神父は何の神学的信仰的説明はせず、淡々と、どうしたら、エコが出来るか、ゴーヤと朝顔の種を配って緑のカーテンを作ろう、等々と呼び掛けたのだから。そこから、私は教会生活とエコ生活と分けるのではなく、教会生活イコールエコ生活である、ということに気付いたのであった。やはり、参加者には環境問題を「霊的」に考えることが必要ではないか、との意見が出されたが、二元論に支配されていると思った。 教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅『いのちの福音』で、教会は「いのちに仕え、いのちのために働く民」であると述べています(第4章)。この視点に立つならば、環境問題、核、憲法9条、等は教会の関わるべき事柄になるのではないか。今年の夏は緑のカーテンでエコ生活、いや、教会生活をしませんか。 |