ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 大空を 一つになりて 雁渡る 」
―もとゐ―


1999年10月31日()年間第31主日 マタイ 23:1〜12


23:1
それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
23:2
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
23:3
だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
23:4
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
23:5
そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
23:6
宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
23:7
また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
23:8
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9
また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10
『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 神を愛し隣人を愛するようにイエスは私たちを招かれています私たちが自己を省みるとき神の前においても他者の前においても何を誇ることが出来るでしょうかいや己の卑しさ罪深さに嘆きゆるしを乞わざるを得ないのではないでしょうかしかし私たちは他者に膝を屈するよりも胡麻かしそれを覆い隠すために外面を取り繕っているのですファリサイ派や律法学者たちは自分の内面を隠すために人目につく振る舞いをもって他者から認められることを欲したのですこの世の力ある者たちが有り余る物からわずかな慈善を施すようにですまた私たちが高価な物やブランド品で身を飾ったり敬虔さを装って信心業に熱心になるかのようにです
 イエスはどうだったでしょうか人目を引くような派手なパフォーマンスをしたでしょうか確かに病人を癒したという奇跡物語が数多く残っているのですがけれどもイエスがされたことは奇蹟を演じるということではなく病人を厚く手当てをしたことを多くの人々が神の御業と見なしたということではないでしょうか何故ならばイエスのその行為は自分を悪者にすれ自己の利益にはならなかったのですから即ち自己を無にして他者に仕えたのですそれに較べファリサイ派や私たちは自分の利益のため自分に仕えるための行為なのです
 神や人は偽りの私たちを見抜いています私たちには仮面は必要ありません
 さあ私たちは神と人のゆるしのもとありのままに他者と共に歩ませていただくことに感謝しましょう

今週の一句
「 穀霊の 立ち上るかな 刈田の朝 」
―もとゐ―


1999年10月24日()年間第30主日 マタイ 22:30〜40


22:34
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38
これが最も重要な第一の掟である。
22:39
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 イエスは「神のものは神に」と私たちを招いています
 神からいただいた私たちの人生は「喜びと感謝」のうちに生きるものですイエスはそれをユダヤ人が古代から生きる指針としていた「十戒」を引用して次のように要約しています「『心を尽し精神を尽し思いを尽してあなたの神である主を愛しなさい』『隣人を自分のように愛しなさい』(参照マタイ22:37〜40)
 ところがこの世の力ある者たちは生命を自分の所有物にしてしまい他者の生命さへ支配するようになったのです彼らは「神を愛する」ことを「神への礼拝」に取り違え形式的礼拝を信仰としたのです(参照マルコ12:33「『…力を尽して神を愛しまた隣人を自分のように愛する』ということはどんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」)その結果彼らは宗教を利用し他者へ重荷を負わせていましたイエスを殺害したのもまさに宗教的理由でした
 現代においてもどこかの政党がある宗教の資金と組織を利用するため手を組んだことに似ていますまた私たちも宗教を装い自己を権威づけ正当化しています「このようにあなたたちも外側は人に正しいように見えながら内側は偽善と不法で満ちている」(マタイ23:28)
 私たちは人生を「偽善と不法」で生きるのを止しましょう隣人となって生命を神に返し「喜びと感謝」の人生を過ごしましょう

今週の一句
「 回廊に 懐かしさ舞う 金木犀 」
―もとゐ―


1999年10月17日()年間第29主日 マタイ 22:15〜21


22:15
それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16
そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
22:17
ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
22:18
イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
22:19
税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
22:20
イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
22:21
彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22:22
彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 私たちの生命は神から預けられたのでしたそれは共に人生を喜ぶためでした
 この世の力ある者たちは詭弁強弁を弄して自分らを守ろうとします
 イエスによってその権威地位を失墜させられたユダヤ教指導者たちは何とかしてイエスを葬りそれらを取り戻そうと躍起でした彼らの胸中には人生を分かち合おうとはこれっぽちもなかったのですあるのは自己の欲望をみたすことだけでしたイエスの招きはそのような人生への疑問でありもっと違う生の在り様への呼びかけなのです即ち私欲追求によって他者を猜疑し陥れ絶え間のない恐怖心に苛立つ人生と訣別し恵みに感謝し恵みを分かち合って喜びを共有する生への招待なのです
 イエスは蟻地獄に生きるユダヤ教指導者たちを憐れんだことでしょうイエスは彼らにもう一度考え直すよう呼びかけました「神のものは神に返しなさい」(マタイ 22:21)あなたの生命は誰のものかあなたのタレントはどこから来たのかとイエスは彼らに問い返されたのです
 さあ私たちも見詰めましょう自分がどこにいるのかをそして恵みを見出し感謝し分かち合いましょう

今週の一句
「 秋夕陽 刈り入れ急ぐ 黄金色 」
―もとゐ―


1999年10月10日()年間第28主日 マタイ 22:1〜14



22:1
イエスは、また、たとえを用いて語られた。
22:2
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22:3
王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22:4
そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22:5
しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6
また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22:7
そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8
そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22:9
だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22:10
そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22:11
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22:12
王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22:13
王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22:14
招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 生命を贈られた私たちは他者とそれを分かち合う人生にイエスから招かれています
 主人が農夫にぶどう園を貸し与えたのは一緒にその収穫を喜ぶためでしたしかし農夫たちはそれ拒否し収穫を自分たちだけのものしようとしました同じく王が婚宴に人々を招待したのは共に喜ぶためでした私たちの生命はいただくにはふさわしくない思いがけない贈り物です贈り主である神は私たちがその生を感謝と喜びの内に過ごすこと(=礼服を着る)を望んでいるのですイエスが生命を与えて共に人生を喜んだようにです
 にもかかわらずわたしたちは農夫や招待された者たちと同じくその生を自己の所有物とし自己の意のままに生きようとするのですまるで今の日本の政党のように政治を国民から委されただけにもかかわらず自己の地位と利権を守るためにだけ狂奔しているが如くです
 さあ神は無条件に私たちに生命を与えられましたその感謝に日々生きるよう困窮にある人々とその恵みを分かち合いましょう

今週の一句
「 曼珠沙華や 名残の恋の 火種かな 」
―もとゐ―


1999年10月3日()年間第27主日 マタイ 21:33〜43


21:33
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
21:34
さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
21:35
だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
21:36
また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
21:37
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
21:38
農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
21:39
そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
21:40
さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
21:41
彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
21:42
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』
21:43
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。

 私たちの存在は神からの贈り物であるが故に感謝して人々と分かち合うよう呼ばれていますしかしこの世の力ある者たちはこれを忘れ自己の存在は自分の持ち物であり私欲を追求するために他者の存在さへも自由に出来ると思っています「さあ殺して彼の相続財産を我々のものにしよう」(マタイ 21:38)
 この度の原子力関連施設での「臨界」事故は人間の傲りと目先の利益のためには何をしてもいいという凶暴性への警告だrと言えます
 私たちは人間の限界と罪深さに戦慄しそれでも私たちをゆるし愛し続ける神に応えて感謝のうちに互いに生命を分かち合いましょう


今週の一分間説教 Gospel on this week