ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 交差点 フロントガラスの 赤とんぼ 」
―もとゐ―


1999年8月29日()年間第22主日 マタイ 16:21〜27


 イエスへの信仰告白は所有物ではなく生きることですペトロはその弱さ矛盾にもかかわらずイエスから岩となって(揺るがない)人々との開かれた新生共同体即ち人生を喜びと感謝に生きる共同体を創るように招かれましたしかしペトロはその共同体に必要な無一物ゆるし奉仕苦難を拒否し権力地位財産を手に容れようとしました「サタン引き下がれあなたはわたしの邪魔をする者神のことを思わず人間のことを思っている」(マタイ 16:23)
 ペトロはむしろ躓きの岩となってしまったのです教会キリスト者も同様に自己保身のため神を忘れ人間に迎合し安っぽい慰め優しさを語るだけならまた社会の暴力・矛盾と闘わないなら邪魔な躓きの岩でしかないでしょう
 さて私たちの人生が喜びと感謝になるにはペトロが望んだこの世的生のように何かを持つ達成する役に立つことに自分の生きがいを見いだすことでしょうかしかしそれらの能力を失った場合あるいはそれらの価値が低くなったときむしろ人生は失意と恨み妬みになるのではないでしょうか
 喜びと感謝の生はマリアや12年間の出血症の女のようにありのままの自分を受け入れられていると信じることです「わたしの魂は主をあがめわたしの霊は救い主である神を喜びたたえます身分の低いこの主のはしためにも目を留めてくださったからです」(ルカ 1:47〜48)
 私たちが何かを所有しているからとか能力があるからとかではありませんイエスは罪人にもかかわらずであり弱い者であるにもかかわらず私たちをそのまま認め受け入れてくださるのです何者でもない私たち私たちにあるのはイエスとの交わりだけですそこに喜びと感謝があるのです従ってイエスは言います「わたしについて来たい者は自分を捨て自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(マタイ 16:24)
 イエスとの交わりを望むならばイエスの語ることに応えなければなりませんペトロのように拒んではならないのですそれは疑似イエスとの交わりなのです
 イエスを「救い主神の子」と告白することはイエスの歩んだ生を生きることですさあ私たちはイエスの内にあって人生が喜びと感謝になるよう分かち合って行きましょう

今週の一句
「 白波や 子らの歓声と 夏退きぬ 」
―もとゐ―


1999年8月22日()年間第21主日 マタイ 16:13〜20


 イエスの新生への招きは私たちをして古い自分から一歩踏み出させます
 私たちはイエスを「救い主神の子」と信じ告白しますなぜならばイエスが私たちの生命を取り戻し新しい人生を歩むように導き守って下さるからです新しい人生とはこれまでの競争型生における恨み辛身妬みの嘆きの生ではなく分かち合い許し合い仕え合う喜びと感謝の人生ですしかしそのためには自分を空にしなければなりません私たちのこれまでの競争型人生は自己を勝たすこと人の上になること満たすことが価値であるため「所有」することがすべてでしたそれゆえに捨てること無一物になることを極度に恐れているのですキリスト教会も同様です規模が減ること貧しくなることを忌避し自己保存に汲々としているのです
 ペトロはイエスを「救い主神の子」と告白したのはそれによって人生の勝利者になりたかったからです即ちイエスに叱責されたようにその告白が苦難刑死無になることをペトロは受け入れられなかったのですけれどもそんなペトロにイエスは教会を建てると約束されたのです
 私たちはペトロと同じく弱く愚かで利己的です相も変わらず私たちの日々は人を傷つけ恨み、妬むのですそのペトロや私たちがイエスに許され受け入れられることにより岩に変わり他者と共に生きられる者となれるのです
 さあこのイエスの恵みの言葉に支えられ教会となって人々に仕える者になりましょう

今週の一句
「 日焼け顔 しろい歯こぼれ アイス買う 」
―もとゐ―


1999年8月15日()年間第20主日 ルカ 1:39〜56


 イエスは新しい生のために一歩踏み出すよう私たちを招いていますイエスとの出会いは私たちの閉じこもりを打ち破りますマリアはその身籠もりから人々から身を隠す他ありませんでした12年間の長血を患っていた女はその病気のせいで隔離され閉鎖的に生きなければなりませんでしたまたサマリアの女は男との同棲のため人々との交わりを避けていましたしかし彼女たちのイエスとの出会いは内向的閉鎖的在り方を変え自分を主張し自分の人生を取り戻すため積極的主体的関わりに生きるようにさせたのですそして彼女たちを変えた原動力はイエスでしたイエスの一人一人へ注がれる眼差し共感(コンパッション)が彼女たちを甦らせたのです
 男の弟子たちを変えたのも復活のイエスのゆるし受容でした
 マリアを心に留められたイエスは私たちにも目を注がれますそのイエスとの交わりによって私たちはマリアと同じく神の救いの働きに参与すべく一歩を踏み出しましょう

今週の一句
「 波しぶき 鼻の頭の日焼けかな 」
―もとゐ―


1999年8月8日()年間第19主日 マタイ14:22〜33


 人生を喜びと感謝のうちに過ごすようイエスは私たちを招きましたその招きに答えるには私たちは分かち合い無一物空になる生き方をしなければなりませんしかし私たちは無一物になることを恐れます自分を支える何か物質権威地位職業学歴家族宗教等々それらによって自己の安心安定を得られるものを欲します
 弟子たちにとってイエスがそうでした全てを捨てて従った自分らを支えるものはイエスでしたイエスの行い言葉なかんずく奇跡的神的パワーは彼らの拠り所でした従って彼らは自分らを守るためにイエスを利用するのもやぶさかではありません「主よあなたでしたらわたしに命令して水の上を歩いてそちらに行かせてください」(マタイ14:28)ペトロはイエスを試しているのですあなたが本当に神の子ならそんな事は容易いことでしょうもし出来たならわたしはあなたを信じますペトロにとってイエスは自分に役立つ限りにおいて信じる対象所有物なのですそれゆえに突発的なことが生じるとイエスへの信仰は吹っ飛んでしまうのですイエスの捕縛処刑がそうでした
 イエスへの信仰とは安全を確保することではありませんイエスが歩んだ道に身を投じることなのですこの世から排斥・拒絶されることなのですイエスは無風な暖かい日差しの下を生きたのではありません暴風雨の中を生きられたのです神なき世界を生きたのです
 そのイエス不信仰な私たちを招いています「来なさい」(マタイ14:29)さあイエスのおられる荒海に向かって一歩を踏み出しましょう船を捨てて

今週の一句
「 朝仕事 玉なす汗の せみしぐれ 」
―もとゐ―


1999年8月1日()年間第18主日 マタイ 14:13〜21


 イエスの人生を宝と発見した私たちは無一物になるよう招かれています
 イエスは各地で人々に喜びと感謝の人生を与えましたそれを伝え聞いた人々特に貧しい病んだ者たちは喜びの人生に変えてもらおうとイエスのもとに続々と押し寄せてくるのでした当然彼らは食う物さへにも困っていますイエスはその様を深く憐れまれ,弟子たちに食べ物を与えなさいと乞われたのです弟子たちは困惑しましたそんなに大勢の人に与えるパンはなかったからですにもかかわらずそれを知っている筈のイエスが言われたからなお戸惑ったのです
 しかしイエスの生を直に見聞きしているはずの弟子たちはすぐに思い至ったことでしょうなんとなればイエスの生は与えることで豊かになること微量なものが巨大になり空になることが実を結ぶことになるのでしたから
 弟子たちは自分らのわずかな食糧を供することが共にいる大勢の人々を満足させるものになることを信じたのです
 私たちが出し惜しみしたときそこには何も生れませんしかし空にしたとき何かが生れるのです
 さあわたしたちは人生を喜びになるよう身軽になりましょう


今週の一分間説教 Gospel on this week