ももちゃんの一分間説教

今週の一句
「 水はりの 森羅万象 年ごとに 」
―もとゐ―


1999年5月30日()  三位一体の主日 ヨハネ 3:16〜18


 力には力で対抗することがどんなに愚かなことであるかをユーゴの情勢は明らかにしましたにもかかわらず米軍の後方支援をする新ガイドライン法成立盗聴を認める組織犯罪法の衆院通過など日本は性懲りもなく力に頼ろうとしています
 神は人間への慈愛を貫徹するために懲らしめるのではなくイエスの生命をとおして自己を無にしゆるし続けられました何故神はそれほどまで私たち人間を慈しまれるのでしょうかそれは人間が争いごとを止め,特におのれの欲望のため名も無き人々を虐げ生命を奪う生き方を改めすべての人間が生命の喜びを享受出来るよう互いが連帯して行くためではないでしょうかしかし神の私たちへの慈愛は事実ではなく課題として私たちに投げかけられたのです神が私たちを愛しておられることを身をもって私たちが示さなければならないのです私利私欲のはかないことを血で血を洗い憎しみを増幅する暴力に生命の喜びがあるはずないことをインドのガンジー米国のマルティン・ルーサー・キング等の非暴力無抵抗主義の運動が暴力に勝利したことを語り続けるのです社会の動きに無関心であることは神の愛に答えていないことです
 さあ許されて生命の課題を与えられた私たちは生命の危機に晒されている人々を救うために行動しましょう

今週の一句
「 水はりて 黄金に染めし 麦実る 」
―もとゐ―


1999年5月23日()  聖霊降臨の主日 ヨハネ20:19〜23


 私たちキリスト者は「この世」にイエスこそ「隣人」であることを身をもって証するようイエスから呼ばれています
 さて復活祭の直前から始まったNATOのユーゴへの空爆は50日たった聖霊降臨祭の今日まで続いていますこの間多くの犠牲者がありましたしかし何十何百の民間人が殺戮されてもまたかとしか思わなくなった感覚に身震いしてしまいます一人の生命が軽視されています従ってこのような麻痺した感覚がホームレスの死に対して何の感慨も持たないのも当然となっています人の生命が政治や経済の論理の中で虫けらのごとく扱われていますこの狂気をどうすれば打破できるのでしょうか人の命がかけがいのないものとして尊重されるにはどうしたらよいのでしょうか
 神はイエスを通して一人の命がどれほどたいせつなものかを私たちに示されました即ち他者の生命は自分の命を捨てるほど尊いことをイエスは身をもって証されました私たちは聖霊においてそのイエスを想い起こし力を与えられます
 自己の利益のために他者の命を奪い取る私たちの世界にあってイエスの命によって新たな生命をいただいた私たちは特に困難な状況にある人々の「隣人」と成れるよう能力時間労力を分かちいましょう

今週の一句
「 つるバラや 四方にもたれ 馥郁と 」
―もとゐ―


1999年5月16日()  主の昇天 マタイ28:16〜20


 私たちの他者への愛と奉仕の働きはイエスにおいてイエスによって実を結ぶことが出来るのです
 さてまたぞろオウムの活動が活発になってきたと報道されましたその理由は「サリン事件」などを知らない世代が年頃になってきたと言います荒唐無稽な教えを無批判的に受け入れてしまうこと世界最終戦争などの終末思想への恐怖感に煽られていること生き残るための超人パワー獲得への熱心さなど若者たちが家族や職業を捨ててまでも入信して行かせるものは突き詰めれば利己主義です「自分さへ良ければ」残念ながら現代の私たちはキリスト者であっても個人においても家族にあっても国家や民族にあっても利己主義的です従って若い世代がキリスト教ではなくそれを求めるのも止むなしです
 私たちが利己主義に走るのはイエスではなくマモン=金を神とし崇め仕えているからです
 しかしそんな私たちにイエスは呼び続けるのです「私は天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ 28:18)神の御心は私たちが共生して行くことそのためには互いが無になることを願っていますイエスの一生はそれを証したのです
 私たちは自分の子供たちがオウムあるいは擬似的なものに走ることを阻止しなければなりませんそのためには今一度イエスに立ち返り己を捨てること人を愛し仕えることの喜び素晴らしさを証ししなければならないのです
 さあイエスと共に苦難にある人々の友となりましょう


1999年5月9日()  復活節第6主日 ヨハネ 14:15〜21
今週の一句
「 初蛙 一匹だけでも 大合唱 」

―もとゐ―


 イエスは自分の働きは自身によるのではなく神自らの行いであると私たちに呼びかけられました
 私たちは時としてイエスへの愛を勘違いしてミサや祈り信心業とかへの熱心さを尺度としていることがありますまるでそれをファリサイ派や管理教育の教師のようにです
 しかしイエスは言います「あなたがたは私を愛しているなら私の命令を守ることになるはずである」(ヨハネ 14:15)言うまでもなくイエスの命令とは「私があなたがたを愛したようにあなたがたが互いに愛し合うように」(ヨハネ 15:12)ですあるいは「隣り人に成りなさい」であり「仕える人になれ」なのですこの他者への愛奉仕の欠いたミサへの出席はイエスの忘却であり暴力と殺戮の渦巻く現代世界には無力の信仰にしかすぎないのです
 けれども私たちの「愛と奉仕」が自己の義のためになったら再びファリサイ派と化してしまうのですそうではなく無力で欠けの多い弱さに満ちた者としてイエスを通していただいた神の憐れみと許しと恵みの応答として「愛と奉仕」をさせていただくのですしかもその働きはイエスの内に神が居て働かれたように(「私が父のうちにおり父が私のうちにいることをあなたは信じないのか」ヨハネ 14:10)私の内のイエスが個々の私を越えて行われるのです「〔将来〕あなたがたが私の名において私に何か願うことがあればこの私が行う」(ヨハネ 14:14)心配はいらないのですイエスが私たちの不完全な業を生かしてくださるのです
 さあ私たちは恐れることなく感謝してこの世の不正義と不平等がなくなるよう働きましょう


1999年5月2日()  復活節第5主日 ヨハネ14:1〜12
今週の一句
「 大の字や 空に向かうや レンゲ色 」

―もとゐ―


 私たちはイエスの門から入りイエスに永遠の生命に導かれました
 しかし今なお止まないユーゴ空爆米国での銃乱射事件日本の不景気とそれに伴う失業者の増加新ガイドライン法の衆院通過による戦争への道等々混乱続く社会にあって多くのキリスト者らは何故か沈黙しています牧者であるイエスはどこへ行かれたのでありましょうか
 私たちはイエスを捜しイエスに詰め寄ります何とかこの状況を変えてくれないでしょうかやっぱりあなたは何も出来ないお方なのですね私たちは自分では何一つしないで「機械仕掛けの神」のミラクルを待望するだけなのです
 そんな私たちにイエスは語られます「わたしは世界を変革したのではないわたしがしたのは出会った人を愛した(アガペー)ことだったのではないかその小さな一つ一つの積み重ねが神において大きなうねりとなり結果的に人を変え,社会を変えて行ったのださあお前たちはわたしのうちにいる神を信じて出会った人を愛しなさい」イエスの働きはイエス一人においては小さなことでしかありませんでしたけれど神においては時空を越えて無限に拡がって行くのです私たちの働きも神においてこそ初めて拡がるのです「父が私のうちに留まっていてその業を行っているのである」(ヨハネ 14:10)※
 私たちの沈黙は内におられる神を閉め出しているのですさあ神の働きに場所を明け渡し神に委ねて声を挙げ行動しましょう祈りましょう「人が私を信じるなら私の行っている業をその人も行うようになりそれより大いなることも行うようになる」(ヨハネ 14:12)※

※ 岩波版新約聖書訳



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