ももちゃんの一分間説教


1999年4月25日()  復活節第4主日 ヨハネ10:1〜10
今週の一句
「 仰見る 青葉若葉の 山揺れる 」

―もとゐ―


 イエスに失意し裏切った弟子たちにイエスの方から出会われたように私への神の愛と許しはイエスへの想起においてのみ贈られるのですしかしそれは私だけに与えられる排他的独善的なものではなく他者へにも開放されているのです「わたしは羊のために命を捨てるわたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいるその羊をも導かなければならない」(ヨハネ 10:11)
 イエスの愛は弟子だけに特権的に与えられたのではなく弟子たちは女性子ども異邦人「罪人」に愛と許しを実現するために派遣されたのです「あなたがたに平和があるように父がわたしをお遣わしになったようにわたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ 10:21)
 さらに弟子たちはイエスが私たちのため己の生命を空にしたように生命を分かつこにへ招かれているのです「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ 10:11)
 「この世界」では愛に基づく正義と平和のために働く人々を剣にかけ沈黙させて来たことを歴史が明らかにしています同時にこのような無数の犠牲者の上に今日の「人権平和」がもたらされたことも忘れてはなりません
 イエスの生涯は今なお多くの人々を世界の正義と平和の確立に駆り立て続けています
 さあ神の愛に立ち直らされた私たちも再びイエスの門から入りイエスの羊飼いに守られ導かれ世界の和解のため自己を分かちましょう


1999年4月18日()  復活節第三主日 ルカ24:13〜35
今週の一句
「 いぬふぐり 若き草辺の 星星よ 」

―もとゐ―


 ユーゴの人々コソボの難民たちのある者らは主イエスの復活を祝ったにもかかわらず現在の自分らの境遇に対しイエスは本当に甦ったのかと嘆き失意していることでしょうイエスの弟子であったこの二人もイエスが十字架上で刑死した後失意の内に故郷エマオへ帰ろうとしていましたというのはイエスは自分らが期待していた預言者メシアではなかったことそして彼によ りローマ帝国からの独立腐敗したユダヤ支配者階級の打倒の夢が潰えたこと同時に自分らの権力への野心が粉砕されたことが理由だったのです
 私たちも自分のイエス像を勝手に拵えて心地のよい信仰生活を送っている場合がまま見受けられますまたそれゆえに危険困難障害不幸悲劇等に見舞われたときイエスを見失い神を呪うことも多々あります
 しかしいつも私たちの「隣人」でありつづけようとするイエスは裏切り失意した弟子たちの傍らに添って歩くのですそして声を掛け続け眼をさまそうとするのです同時に私たちはその声に耳を傾けることその姿に気付こうとしなければイエスに気づくことはないのです自動的にイエスとの再会はできないのです
  イエスの働きかけと私たちの受容の行われる場はミサであり聖書であり現場でありますマザーテレサロメロ大司教難民キャンプのボランティアたちの中でであります
 今ユーゴコソボの人々の隣り人として各自の出来ることをしましょうそれこそがイエスの復活をしらせることになるのです


1999年4月11日()  ヨハネ 20:19〜31
今週の一句
「 花揺れて 波立つ若菜 母娘の笑み 」

―もとゐ―


 イエスは失意にあった弟子たちと再び相見え彼らを新しく創造しました。
 イエスとの再会は神の下聖霊によって与えられるのです。イエスとの再会の場に居合わせなかったトマスはこの世の眼によってイエスを見ようとしたのです。聖霊に預った他の弟子たちはイエスとの交わりに平和を見出すことができたのです。彼らはマイナスとなった自分らを受け容れたイエスによって互いを許し合う共同体を創ることができたのです。ところがトマスはまだ聖霊を与えられていませんでした。彼は一刻も早くイエスに抱かれて許しの確証を得たかったのです。私たちもこの世に支配されている限り自己の存在を価値付けるものを求めるのです。時には地位学歴等です。
 しかし神の下に生きる時聖霊によって私たちからは想起において自己への神の愛許しが与えられ受け取ることができるのです。「見ないで信じる人は幸いである。」
 この世の価値はうつろいやすいのですが神の愛は誰も奪うことはできないのです。
 聖霊において私たちの存在は受け容れられているのです。
 さあ私たちも聖霊により全世界の平和と和解の使者になりましょう。


1999年4月4日()  復活の主日  マタイ28:1〜10
今週の一句
「 雲雀舞い 宙にさえずり 子を守り 」

―もとゐ―


 弱さと汚辱にまみれた弟子たちさへ愛しいイエスは彼らを新しく創造するためご自身を差し出されました
 裁判の席にも十字架に釘付けにされた時にも絶命した時さへにも埋葬された時にも弟子の誰一人イエスの「隣人」に成れませんでした彼らはユダヤ教支配体制即ち弱肉強食社会の中で自己保全のためイエスから離脱したのでした他方イエスはその体制から人々を解放し友愛と平等に生きる人間の創造を目指したのでしたその人間の基礎となるのは自己譲与つまり許しと受容の愛でしたイエスはそれを証しするため体制に埋没してしまった弟子たちに再び「会う」ことを告げたのですしかもその場はイエスが彼らと最初に出会ったガリラヤだったのですイエスは彼らに初めからやり直そうと言うのです
 弟子たちは生前のイエスを想起したときそのイエスの思いに立ち返ったのです弟子たちにとってはそれこそが「イエスの復活」新しい創造に他ならなかったのです
 TVは連日コソボの難民たちを映し出しているイエスの復活を祝う私たちは他民族と共存できる一人一人に創造されることを祈らずにはいられません


1999年4月2日(金) 聖金曜日 主の受難 ヨハネ 18:1〜19:42
今週の一句
「 うぐいすや 振り向く我は 藪の中 」

―もとゐ―


 イエスは弟子たちが再びイエスの道を歩むように彼らの足を洗いました
 人の心は弱いものです「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)と言い切ったペトロは三度もイエスを知らないと答えたのでした にわとりの鳴き声を聞いたペトロは我に返ったことでしょう 自分の傲慢さに打ちひしがれたことでしょうそれまでのイエスとの歩みは自己に頼ったことだったのです己の無力さを知っていたペトロであるなら前途のようなことは言えなかったでしょう
 イエスはペトロがその失意から神の憐れみに気付くことを待ったのでした決してイエスはペトロを諌めなかったのです
 イエスの十字架それは無力で罪深い私たちが神の憐れみのもと自己と他者を受け容れ世界と共に生きるように向かわせるイエスの眼差しなのです
 ユーゴの空爆の続く中イエスの十字架は立っています私たちが平和を回復し共生する世界とする働き人になるよう祈りましょう


1999年4月1日(木) 聖木曜日 主の晩餐 ヨハネ13:1〜5
今週の一句
「 ボーと灯る 急ぐ闇路の 朧月 」

―もとゐ―


 イエスは最期の時を弱さに満ちた弟子たちと食事を共にして過ごされました
 さてその際裏切るであろう弟子たちの足を洗い「わたしがあなたがたにしたとおりにあなたがたもするように」とイエスは弟子たちに勧めました心中穏やかでなかった弟子たちはどのようにそれを聞いたのでしょうか
 イエスは苦難にある人々の隣人に成るとき己を空にしたようにつまずく弟子たちを許すしるしとして彼らの前に己を差し出したのです
 後日自分らを受け入れたイエスの愛に気付いた時弟子たちは互を非難し裁くのではなく「洗い清くする」つまり許し合うことに気付いたのでしたミサを祝う時イエスがしたように私たちは互をゆるし世界を愛し己を与えるのです
 今年の主の晩餐の記念はNATOのユーゴへの空爆の最中行われています私たちが両者の和解のため己を与えられるよう祈らずにはいられません


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