ももちゃんの一分間説教


1999年3月28日()受難の主日 マタイ 26:14〜27、66
今週の一句
「 菜種梅雨 伸びて縮んで 花開く 」

―もとゐ―


 イエスが出会った苦しみ悲しみを負った人たちの傍らに立っていたように私たちも隣人に成れと勧められています
 イエスは自分の身に刻々と迫ってくるユダヤ教指導者たちの魔の手に恐れおののいていたでしょうけれどもイエスは自分を敵に売り渡し最期には裏切るであろう弟子たちと食事を共にしたのですそれはイエスが常々排除されてきた人々貧しい者病人遊女たちと食卓の交わりをしてきたようにイエスの最期に心揺れている弟子たちの傍らにいようとしたのです「今夜あなたがたは皆わたしにつまずく」(マタイ 26:31)
 これは非難でありながら何と慰めに満ちたことばでしょうか弟子たちは憤慨したのですが後に気づきましたイエスはどんな時でも「隣人」になり続けました人生に躓き倒れた弟子を後から支えられるのです
 さあ私たちも人々の応援者になりましょう


1999年3月21日()四旬節第5主日 ヨハネ11:1〜45
今週の一句
「 春雪や 山の稜線 萌え出でて 」

―もとゐ―


 私たちは永遠の愛のもと苦難の人々の隣り人に成るようイエスから招かれています
 前回私たちは病者との関わりをイエスから教えられました即ち宗教的社会的に排除され無価値とされている病人を一人の神から創造された人間として受け容れ傍らに立つことしかもそれは宗教的社会的タブーを犯すこととなり十字架刑に服すことさへ厭わない覚悟のいることでしたもちろん私たちにはそこまで出来るか言いきることはできないですが少なくとも病人を「病人」として見るのではなく「A」さんという一人の人間として関われるのではないでしょうか
 さて今回イエスは私たちに身内を亡くし悲嘆にくれている者たちとの関わり方を教えていますイエスは十字架で刑死したのですが2000年後の今なお確かに生きて働いていますこの信仰に立つならば死者との交わりは永遠に続きますマルタマリアはイエスを通してラザロと交わることっが出来るのです私たちのイエスの復活信仰とはイエスによって死はもはや終わりではなく新たな始まりとなったことを信じることです
  親しい人との別離に悲しんでいる者たちに私たちはイエスと同じように傍らに立ち永遠の相のもとで生き続けていることを語ろうではありませんかそのためにはまず私たちがイエスとの交わりに生きることがその証になるに違いありません
 さあ今日イエスの声に耳を傾け従いましょう


1999年3月14日()四旬節第四主日 ヨハネ 9:1〜41
今週の一句
「 水仕事 指にからまり 春きざし 」

―もとゐ―


 イエスはわたしたちが永遠の命にいたる水を求めるよう呼びかけています
 さてこの世に生の根拠を置いている者たちには永遠の相を「視る」ことはできませんファリサイ派の人たちは自力に頼って救いを得ると考えていたので神からの恵みとしての救いを拒否してしまいます盲人の目を開いたイエスの業に神の働きを「視る」ことは出来ずにイエスの権威を糺してしまうのです
 現代のわたしたちもある働きに対して教区のお墨付きの有無を問題にします認可のある働きには安心しますがそうでないものには悪魔的なものと見なしますファリサイ派の人々は安息日を守ることに固執して盲人の隣人には成れなかったのです
 イエスはこの世的な規則掟に従うのではなく永遠の相つまり神の心を「視て」いたのです
 現在全世界では30億人の人が飢えていると言われていますがこの現実に胸を痛まずにはおられませんもはや教会の掟に捕らわれているのではなく一人の飢えが解消されるために行動することこそが神の心ではないでしょうか
 さあ私の目下の関心にではなく永遠の相神の心を「視」ようではありませんか


1999年3月7日() ヨハネ 4:5〜42
今週の一句
「 梅の香や 露宿者の顔 ほころびて 」

―もとゐ―


 温室から出て苦難に喘ぐ人々の中で生きるようにとイエスは私たちを招かれています
 私たちの暮らしは肥大化した欲望を満たすことに明け暮れています例えば万博は一儲けしようとの企みが貴重な環境さへ破壊されることを表していたりアメリカは利益のためにイラクを空爆したりとかであり身近なところでは毒や薬で人を殺傷し金銭を奪うことなどですそして日本で初めて脳死者からの臓器移植が行われたように寿命を伸ばすことにも欲望を広げているのです「近代社会は人間の『こうしたい』『ああしたい』という欲望を解放させていくことが善だと考えて突っ走ってきた医療の現場では人間の『生きる』という欲望に医療技術がこたえ技術の進歩が人間の『生』そのものに影響をおよぼしている」(村上陽一郎朝日新聞99年3月1日)私たちは喉の渇きを癒すため「水」を求め続けているのです
 イエスは人目を避けてひっそり暮らしているサマリアの女の心に火を点しました「渇く水ではなく決して渇かない水を求めよ」とそれは膨張し続ける欲望追求の閉鎖的過労死的生活からイエスのように与え続ける開放的生まさに尽きることのない「永遠の命に至る水」の生を生きよとの呼びかけなのです何故ならばあなたには神の限りない慈愛が注がれているから男にではなくそこに存在の根を下ろすなら愛があふれ出してくるからなのです
 イエスは裸でした飢えていましたしかし彼は分かち合いました神が養い着せてくださることを信じたからですイエスは無力でした彼は孤独でしたしかし彼は与えました神が共にいることを知っていたからです
 さあ身を飾ることばかりに捕われることから自由になって尽きない愛を分かち合いましょう


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