1999年2月28日(日) 四旬節第二主日 マタイ 17:1〜9
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私たちの生涯は自己の声に従うものではなく、神のみ旨に生きることであるとイエスは招いています。
当初、イエスの宣教活動は弟子たちの目から見れば、その癒しと言葉は第二のモーセであり権威ある業に映りました。「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した。」(マタイ 9:8)
それゆえ、イエスにお前たちは自分のことを何者だと思っているのかと尋ねられたとき、弟子たちは「救い主、神の子」と答えたわけです。けれども、その弟子たちはイエスの受難予告を聞いたとき、それを拒み、イエスから叱責されたのです。(参照 マタイ 16:13〜20)
つまり、弟子たちの救い主像、神の子像には「栄光、権威、勝利」しか考えられなかったのです。
ペトロにはイエスが常に「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」方でなければならなかったのです。苦難の道なんか歩みたくはなかったのです。しかし、イエスは受難の待ち受けるエルサレムへと弟子たちを発たせるのでした。私たちもイエスが勝利者であり、人生を賛美する方である限り有り難く礼拝するのですが、イエスが私たちに愛と犠牲を求めると顔を歪めそっぽを向くのです。
そのような私たちにイエスは山を降りるように、つまり、礼拝堂だけでの信仰ではなく苦難に喘ぐ人々の中に生きるようにと促すのです。私たちがイエスに会いに行くのは、自分の生活の安泰と慰めを得るためではありません。イエスが自己を神に任せて空になり、苦しむ者たちの隣り人になったように、己のパンのみの生活から他者と共に分かち合う生を送りたいからです。
さあ、イエスに支えられて、パンを分かち合いに行きましょう。
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