ももちゃんの一分間説教
暗闇に光をともす人になれとイエスは私たちに呼びかけています。
競争社会に生きて行こうとする者は、自分を強め高めることによって幸いを得ようとします。自己の能力への過信,何事にも弱音をはかない強さ、人を人とも思わない冷淡さ、不正を厭わない大胆さ、等が人に権力や富を蓄積させ、この世の勝者にします。しかし、この世の勝者ははかないものです。「栄枯盛衰、盛者必衰の理をあらわす」です。にもかかわらず、人々は勝者を目指し「頑張り」続けるのです。
さて、イエスがその生涯を賭けて伝えた幸いは、神から一方的に与えらる贈り物でした。ぶどう園で夕方遅く雇われた人に与えられた賃金は朝一番に雇われた者と同額であった話し(マタイ 20:1〜15)のように、神の国の幸いは、人間的価値観に従うものではなく、むしろ、人間たちが拒否し、反発し、憎悪する人々の傍に神の方から居られることです。
今朝の新聞にもあったように、競争を続け私的利益追求の人々は「受精卵遺伝子診断」をして生命の選別を計ろうとしています。
さあ、こういう世の中に対し、イエスの弟子である私たちは、苦しみ、悲しみ、正義平和を分かち合う生を送りましょう。そこに神が居たもうからです。
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1999年1月24日(日) マタイ 4:12〜23
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私たちはイエスと出会い、この世に従うのではなく神に導かれるよう招かれました。
2000年前ユダヤの人々は救いを待望していました。ローマ帝国の支配下、その閉塞状況下からの脱出を求めて、ある人々は神の掟を遵守することに、ある者たちは禁欲的隠遁生活の実践により、ある層の人たちはローマからの政治的独立を得ることに、そして、これらの人々から見捨てられた貧しい者、病人、外国人らは絶望のうちに生きていました。今、私たちの国は長引く経済的不況下、何とか景気を良くしようと将来へのばく大な借金となる大金をつぎ込んでいます。他方、リストラで失業した人たち、地震の被災者、ホームレスたちは切り捨てられ生命が脅かされています。これらの人々の生命が守られ、豊かに生きるためには何が出来るのでしょうか。
イエスは言いました。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)この世にではなく、神の御心に人生の向きを変えなさい。何故なら、神が来られたのです。神があなたがたの「隣り人」に成られたのです。神が私たちと共に病を負い、貧しさを耐え、中傷を受けられたのです。神の愛ほど確かなものはなにのです。
さあ、私たちはイエスを通して神の愛をいただき強められました。今度は、私たちが暗闇にいる人たちの隣人となり、神の光を指し示そうではありませんか。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ 4:16)
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1999年1月17日(日) ヨハネ 1:29〜34
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神の子イエスは私たちが、聖霊に導かれ、この世にではなく神の下に生きるよう招きました。
さて、この世の支配者たちは自己の安定を保つために社会の隅々までコントロールします。人や物をコントロールするには相手がまず何者であるかを知り、次に分類して対策を練るのです。例えば、ホームレスは「怠け者、辛抱が足りない」と一括りして、従って、救済しないと政策を決定するのです。ユダヤ教の指導者たちは荒野の洗礼運動をキャッチして、その首謀者である洗礼者ヨハネが何者であるか探りに来ました。「あなたはどなたですか」(ヨハネ 1:19)そして、正体を知るとコントロールするのです。「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」(同1,28)
しかし、いかにこの世の支配者であろうと神をコントロールすることはできません。神に生きているヨハネは彼らの要請を無視しました。そして、イエスを「神の小羊」と呼んで彼らに「見よ」と指し示しました。
神は「機械仕掛けの神」、即ち、人のコントロールを受ける、また、名前を付けられるものではありません。私たちは、ただ、「みる」ことしか、あるいは「みよ」と示すことしか出来ないのです。私たちがイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と信じるのは、知的探求や「信じなさい」と言われたからではありません。イエスに働く神の業を「みる」からなのです。
さあ、私たちはイエスを「あなたはどなたですか」と問うのではなく、「み」ましょう、そして、人々に「みよ」と指し示しましょう。
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1999年1月10日(日) マタイ 3:13〜17
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「
あらたまの 闇夜は裂かれし 月明かし
」
―もとゐ―
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私たちはこの世界を見るのではなく、この世界を越えた方を「見る」ようにイエスに招かれました。
さて、私たちの日本では去年の暮れから正月にかけて「毒」事件が続いています。「毒」は目に見えず、犯人も分からないので、まさに、真っ暗です。古来、私たちは暗黒に覆われ続けています。しかし、闇の主を見透すことはできます。その正体は人間の私利私欲であります。クリントンがイラクにミサイルを撃ち込のも、ある人が毒を盛るのも同じです。パウロが言うように肉の業、即ち、この世界の思いは「敵意、争い、怒り、利己心、不和、等々」(参照ガラテヤ 5:19〜20)です。
イエスが登場したのは私利私欲の渦巻く闇のこの世界でした。イエスの存在はある人々には「光」だったのです。まさに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ 3:17)であったのです。では、何故、ある人たちにはイエスは「光」であり、「神の子」だったのでしょうか。それは、彼らが人の思いに従ったのではなく、聖霊に従ったからです。パウロの言うように霊の実は「愛」(参照 ガラテヤ 5:22〜33)だからです。即ち、イエスは「愛」だったのです。闇を払いのけられるのは、人の思いではなく自己譲与の「愛」です。そして、その「愛」を見分けられるのは聖霊なのです。
さあ、私たちも闇の中を右往左往するのではなく聖霊の導きにより光の中を歩みましょう。
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1999年1月3日(日) 主の公現 マタイ2:1〜12
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「
わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです
。」
(マタイ2:2)
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クリントンがイラクにミサイルを打ち込んだのは私利私欲のためでした。斯様に、この世界の論理は弱肉強食です。その論理に支配されている内は、弱い立場の者は強い者に翻弄され、非業の死を遂げるのです。
しかし、聖書の人々は違います。この世の支配者や「普通の人たち」は足元の利益しか見ていません。それに対し、聖書の人たちは、歴史を越えて働く方を「見て」います。東方の占星術の学者たちは星を見ていました。また、夢のお告げに従い、ヘロデの陰謀に荷担しなくてもすみました。ヨゼフとマリアは夢に導かれイエスを産み、ヘロデの手から逃れました。
私たちも、この世に従って、弱い者苛めの連鎖に巻き込まれないようにしましょう。さあ、歴史を越えて働く方を見つめましょう。
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1999年1月1日(金) 神の母聖マリア ルカ 2:16〜21
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救い主イエスの誕生のドラマはこの世的価値観からは秘された出来事でした。この世の支配者たちや「普通の人々」には見えず、むしろ、彼らから貶められた異邦人の占星術の学者たちや野宿の羊飼いたちは「見る」ことができたのです。何故ならば、彼らは神の導きに従ったからでした。
〈「競争型社会」をつくり、「小さな政府」をめざす)、と小淵恵三首相の諮問機関である経済戦略会議が、「日本経済再生への戦略」と題する中間報告をしました。私たちの国はこれまで経済成長一辺倒のため人を犠牲にし環境を破壊して来ました。今、経済停滞にあたって、経済成長だけではないオルタネィティヴなもう一つの在り方に日本を変える絶交の機会となっています。にもかかわらず、またもや、この国の指導者たちは、なおも、人々を競争に駆り立て、優者と敗者に分断し敗者を切り捨てて行こうと画策しています。ユダヤの人々が幼子イエスに神の御心を見ないで、相変わらず、ダビデ王の再来を待つかのごとくであります。
羊飼いたちは飼い葉桶の幼子が救い主であることを「見た」のでした。即ち、神はこの世の勝者にではなく、弱い立場の人たちと連帯することを。この世が敗者と呼ぶ者たちと共に居られるかたであることを「見た」のでした。
さあ、新しい年の始まる今日、私たちも羊飼いら共に小さき者たちのそばに居られる神を礼拝し、そのみ心に仕える者になりましょう。
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