ももちゃんの一分間説教
12月27日(日) 聖家族 マタイ2:13〜15,19〜23
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「ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている
。」
(マタイ 2:13)
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クリントンは保身のため、名もなきイラクの人々の生命を奪いました。
ヘロデ大王は慌てました。東方からの客人が「ユダヤ人の王が生れた」と告げたからです。ヘロデは捕らえて殺すために軍隊を送り、無差別に幼子たちを殺戮したのです。
弱い人々は権力の横暴になす術がありません。名古屋市は「普通の人々」の苦情を理由に公園にしか居場所のないホームレスを強制排除しました。彼らは抵抗できず寒空に追い出されました。誰が彼らを守るのでしょうか。
家畜小屋の家族に目を留められた方は、再び、目を留められ、ヘロデの手から彼らを救い出しました。主である神は、これらの小さき者たちの隣り人なのであります。
さあ、私の隣り人にもなられたイエスと共に権力の横暴に立ち向かいましょう
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「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである
。」
(ルカ 2:7)
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クリントンの米国がイラクの女・子どもの生命を翻弄しているように、この世の強者は弱い者を弄び、日本が米国を支持したように「普通の人々」はそれを傍観し支持するのである。
貧しく若い夫婦は、ローマ皇帝の命により難渋な旅を強いられる。臨月のマリアは苦しみに喘ぎながら目的地に急がねばならなかった。
大企業、金持ち優先の日本では、失業し家を無くした人々は寒空で凍死餓死させられるのである。また、「普通の人々」は無関心かつ冷淡である。
産気づいたマリアを休ませる「普通の人々」はいなかった。むしろ、自分のことで精一杯で気遣う余裕はなかったのである。ホームレスが飢えていても、まず、自分のことを優先するのである。
しかし、世間が見捨てた者たちに主なる神は光をあてる。「この方こそ主メシアである。」(ルカ2:11)野宿の羊飼いたちには「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と天使が告げたのであった。
クリスマス、それは神様が見捨てられた者たちに目を留められ、傍に居て下さる喜びを告げることだ。
さあ、私の隣りに来られたイエスと共に弱い立場の人々に目を向けましょう。
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12月20日(日) 待降節第4主日 マタイ 1:18〜24
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「聖霊によって身ごもっていることが明かとなった。」
(マタイ 1:18)
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米国がまたもやイラクにミサイルを打ち込んだ。クリントンがおのれの保身のために攻撃したとしたら、傷つき、死んだ人々は何と無念のことだろう。この世界の強者は弱者の生命を虫けらのように扱っている。この人間のおぞましさを打ち破られるのは何だろうか。
ユダヤの人々は自分らの身内、しかも、大王ダビデの子孫から救い主が現れるのを待ち望んでいた。マタイもそう考えていたに違いない。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とこの福音書の冒頭第1章第1節に書いているからだ。
ところが、ダビデの子孫からは救い主は生れなかった。救い主は血筋や家柄、才能とかのこの世の価値に従って選ばれるのではない、むしろ、市井の名もない貧しい若々しい夫婦の間に贈られたのである。「聖霊によって身ごもっていることが明かとなった。」
主なる神は人間の悪の連鎖を打ち破るために介入される。人間の救いは与えられるのみである。
しかし、その恵みに私たちが応えなければ、悪の構造は再び立ち上がるのである。
さあ、与えられた救いに応え、第2のクリントンが生れないように立ち向かいましょう。「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)
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「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」
(マタイ 11:4)
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ローマ帝国の支配下、苦難にあったユダヤの人々は救い主メシアの到来を待望していました。しかしながら、支配者層のユダヤ人や宗教的エリートの律法学者、ファリサイ人たちは政治的自由と応報的救いをもたらすメシアを期待していました。他方、彼らから社会的にも宗教的にも抑圧差別され塗炭の苦しみに喘いでいた貧しい者、病気の者、外国人たちには彼らのメシアは無縁でありました。人として生きる喜びを願っていました。
そんなメシア待望の最中、イエスの登場は支配者・エリート層の彼らの信仰には躓きでした。「来たるべき方は、あなたでしょうか。」(マタイ 11:3)そして、イエスには「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ 11:19)とレッテル貼りをしたのでした。
2,000年後の富裕者の教会においても社会的経済的全人的解放を求めた「解放の神学」に対してアカ、過激派とか共産主義と呼び異端者の如く扱っています。
イエスはユダヤ人主流派の期待に反し、彼らが無視していた「弱い立場の人々」の下に来られ、共にいました。「目の見えない人は見え…、足の不自由な人は歩き、」彼らにとってイエスの存在は、障害や抑圧を乗り越えさせる力となりました。神から慈しまれたかけがえのない一人としてイエスから接せられた彼らの喜びはいかほどだったでしょうか。一人一人が生かされ生かし合う所にこそ神はいるのです。
さあ、私たちの教会を「弱い立場の人々」と互いに生かし合える場所にしましょう。
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イエスの愛は私たちを、利己的生き方から「苦難を負う人たち」と共に生きることへと目を覚まさせました。
洗礼者ヨハネは当時のユダヤ教指導者たちに呼びかけています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。…悔い改めにふさわしい実を結べ。」(マタイ3:7、8)誰でも激しく叱責されると、痛くプライドが傷つけられ反発します。特に、信仰者の場合、遜色なく日頃の信心に熱心な場合には、相手の非正統性を突いて悪魔呼ばりします。ヨハネもイエスもその犠牲者となりました。糾弾されたユダヤ教指導者たちは、怒り心頭にきたことでしょう。自分らを何だと思っているのか、誰にものを言っているのか、「我々の父はアブラハムだ」、それにつけても、こいつらは何者だ、何の資格、何の権威でしゃべっているのか、この恨み忘れはしないぞ、と。
教会での勤めは、例えば、ミサの出席、祈り他信心の励行は人目につき自己の誇りになりやすいです。しかし、他者は不在です。
ヨハネやイエスの招きは、隣り人に成ることです。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ 7:12)と自己を空にし、相手の立場になる、ということです。イエスは私の立場にたたれ隣人に成られたのです。ヨハネの叱責はユダヤ教指導者たちにプライドを保つことより人の事、特に、「弱い人々」の立場に立つようへの呼びかけです。
さあ、神はありのままの私を慈しまれました。誇りはそこにこそあります。その慈しみを分かち合いに出かけましょう。
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「目を覚ましていなさい。」
(マタイ 24:42)
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己の罪と無力さに打ちのめされた私たちの傍らにイエスは居てくださいます。その彼に起こされた私たちは、「弱い立場の人々」の隣人になるよう招かれています。
今日の大不況下、「弱い立場の人たち」はますます弱くさせられています。政府は銀行や大企業には途方もなく救済しますが、野宿を余儀なくされている人たちには追い出すことしかしません。また、高齢者には年金の支給を遅くし、自助努力を促すだけであります。米国は日本の軍事力さへを巻き込んで、既得権益を守ろうとしています。このような、強い者だけが生き残る世界にあって、私たちはどのようにしたら、弱い人々の隣人に成れるのでしょうか。
私たちはその巨大な壁を前に立ちすくみ、目をつぶって、自分のことだけ考えてしまうなら、路上死の数は増えて行くばかりでしょう。けれども、目を覚まし、イエスに励まされ、仲間と助け合うなら穴を穿つことが出来るでしょう。そして、未来を見通しながら、しかし同時に、「今、ここに」倒れている人に手をさし伸べることから始めることが出来るのではないでしょうか。
イエスは目覚めていました。ユダヤ教社会で弱くさせられている人々のいることを。従って、まず、手を伸ばしました。そして、強い者たちに同じようにしなさい、と語りかけました。
さあ、イエスは私たちの目を覚ましてくれました。気を新たにして「弱い立場」の人々と共に歩みましょう。
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「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
」
(ルカ 23:41)
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イエスを通して神に迎え入れられた私たちは、「小さき者」との連帯に生きるよう呼びかけられています。
「罪人や遊女」と共に生きたイエスは、ユダヤ教指導者からみれば強盗(ルカ 22:47)や犯罪人の一人でした。それゆえに、二人の犯罪人といっしょに十字架につけられたのです。
極刑に処せられている二人の犯罪者の心はいかばかりであったでしょうか。恐怖と痛みの最中、彼らは命乞いをせずにはいられなかったでしょう。その彼らにイエスが側で磔にされているのです。一人は藁にもすがる思いで叫んだでしょう。「助けてくれ。」
しかし、イエスは応えられないのです。イエスは無力です。イエスが出来たのは、ただ、二人と同じく恐怖と痛みに、ただ、じっとこらえるだけでした。一人は気づきました。私たちのような犯罪者と同じ苦しみを共にしているのだ、と。彼ら二人はどんな罪を犯したかは分からないのですが、磔にされる程の極悪非道なことをしたに違いないのです。彼らは当然な報いを受けているのです。誰からも見捨てられも仕方がないのです。
にもかかわらず、彼らの側にイエスが共に首を垂れているのです。犯罪者と一緒に鎖に繋がれるでしょうか。獄に入るでしょうか。ましてや、断頭台に上がるでしょうか。
私たちは自己中心的生き方で罪を犯し立ち上がれない程落ち込む時があります。けれども、その私の側にイエスが私と同じく頭を抱え苦しんでいるのです。
さあ、イエスに立ち上られた私たちは落ち込んでいる人、獄に繋がれた人の側へ行きましょう。
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「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」
(ルカ 21:17)
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自力に頼ることから神の慈愛の内に生きることへ転換した私たちは、「苦難にある者」たちと共に在るよう、イエスから招かれています。
イエスに従うキリスト者は「この世」の利己主義的生き方、自分さへよければという在り様と対立します。効率や利益を優先するなかにあって「在る」ことを認めて行くことは、しんどいことです。例えば、愛知県や名古屋市が勧めている万博や中部国際空港の建設、藤前干潟の埋め立て等、は経済優先にあっては生態系の破壊、社会福祉費の削減、ホームレス排除は当然のことです。これらに対し自然を守り、弱者と共に生きようとすると、世間は白い目で見、時には、暴力で脅かします。また、自らの大量消費生活、業績主義を変えて行かない限りそれらには説得力はありません。
イエスの病人や貧しい人々との関わりは利益や業績を生むものではありません。むしろ、社会にとっては無駄、損でありました。しかし、イエスにとっては何かを作り生産することより、「在る」ことは恵みであり喜びであったのです。従って、他者の「在る」ことを利益や効率から否定することには怒ったのです。私たちも「所有」しているからではなく「在る」からイエスに受け入れられているのです。
さあ、「在る」ことを求めて、イエスと共にこの世から憎まれる者になりましょう。
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「めとることも嫁ぐこともない。」
(ルカ 20:35)
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神により頼む人は「小さき者」と生きるために喜んで苦難や迫害を受けるよう、イエスに招かれています。
イエスを捕らえ磔にしたユダヤの人たちは、自己の価値を掟、伝統、慣習、形式の遵守に立てていました。しかし、その遵守が絶対化され人を奴隷にします。囚われた者たちは、守らない者たちを許し難い堕落した人と見なし、連帯ではなく排除します。彼らの肉体は生きていますが魂は死んでいます。また、復活とは律法遵守した自分たち義人に与えられる栄冠、つまり、この世の価値がそのまま続くものと考えていました。例えば、レヴィラート婚を遵守した兄嫁は当然復活すると信じ、次のような問題に悩むのであります。「復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。」
私たちの信仰も規則や形式が絶対化され、その遵守が信仰になってしまい「隣り人に成る」ことではなく「裁き人」に成り、いきいきとした生ではなく小心で息の詰まった死んだ生になることがあります。
ところで、イエスにとっての復活は「この世」の延長ではありません。全く違う事態が生じるのであります。「この世」の価値が相対化され、死んでいた者が生き返るのであります。復活とは、自己の力との訣別であり、神の慈愛に生かされ他者との共生に向かわせる出来事なのであります。
さあ、私たちは復活がどうなることなのかと詮索するのではなく、復活の出来事に身を投じ、「苦難を負った人々」の友になりましょう。
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「わたしのためにののしられ、…あなたがたは幸いである。」
(マタイ5:11)
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慈愛の神に存在の基盤を置く者は、この世の「小さき者」「弱き者」たちと連帯するよう、イエスは呼びかけられています。
この世の自己の力に頼む人たちは、自分の欲望達成のためには他人の生命さへ奪い取ってしまいます。最近の和歌山のヒ素中毒事件、大学などの毒物混入事件や産業廃棄物不法投棄、更には、軍事兵器の販売に見られます。これらに関わっている者たちは、それらを批判、阻止する人たちには脅迫や暴力をもって介入してきます。また、「普通」の人々も、生活を脅かされると老人、障害者、ホームレス、外国人を差別し、排除します。
イエスは、自分の力を放棄し、無力になりました。それは、神が養い、装ってくださるからです。(参照 マタイ 6:25〜34)イエスの生は自己の為ではなく、他者と共に生きること、即ち、この世の利己主義的生き方によって人権、生命を貶められてきた人々の隣り人になることでした。しかし、それは、この世の人々からは反感を買い,妨害されたのです。
私たちはあの徴税人のように自己の無力さ罪深さに打ちのめされ死んでいました。ところが、その私たちを神はイエスを通して立ち上がらせてくださったのです。もはや、私たちは生きるも死ぬのもイエスのため、つまり、イエスが愛した人々の隣人になことなのです。
さあ、イエスのために私たちは、喜んで迫害され、悪口を浴びせられましょう。
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