ももちゃんの一分間説教


10月25日() ルカ 18:9〜14
今週のKey Word
「この徴税人のような者でもないことを感謝します

(ルカ 18:11)


 闇の中の一条の光りのように日々神の助けを求め隣人に成ろうとしている人々がいます他方闇が厚く覆っているのもこの世界であります
 私たちの値打ちはどこにあるのでしょうか国籍宗教家柄学歴職業研究発明論文勲章表彰状にあるのでしょうか私たちの価値はそれらの序列のどこに位置しているかで計られるのでしょうかファリサイ派の人は自分の価値をその序列の中に見いだしていたのですつまりいわゆる,ユダヤ人にとって売国奴的卑賤な職に就いている徴税人より上にいる自分を誇っていたのです私たちがホームレスを見て自分をましだと思うのとおなじです何故私たちは己の価値を他人との比較においてしか見られないのでしょうか私たちは子供の時以来親や教師,また同僚たちからそういう目でしか見られなかったあるいは受け入れられなかったのです従って受け入れられるためにいい成績をとったりいい職業につくしかなかったのです
 イエスの神は私たちを条件づきで受け入れるのでしょうか「神の国はこのような者たちのものである」(ルカ 18:16)無論ここでのこのような者たちとは放蕩息子いなくなった羊徴税人や遊女のことを指しています神はイエスを通して私たちを限りなく愛し尽くされました私たちはここに居場所がありますまさに私の価値誇りは神の懐に抱かれていることなのでありますそれ故にこそ私たちはこの世の序列の中では他人を軽蔑するか自己卑下するしかありませんが神の懐では連帯できるのであります
 さあ私たちは神の懐から出て神の懐に人々を招きましょう


10月18日() ルカ 18:1〜8
今週のKey Word
「彼らをいつまでもほおっておかれることがあろうか

(ルカ 18:7)


 イエスの「今ここ」での呼びかけに応え神との交わりに生きている人々が多くいます他方彼らの働きが虚しくなるぐらいこの世界ではますます大国の利己主義が横行して貧富の差は大きくなりまた武力紛争は拡がっています日本においても不況のため弱い立場の労働者は失業を強いられ生活苦に喘いでいますイエスに従う者たちはこの圧倒的な悪の勢力を前に神に叫ばずを得ません「御国の来たらんことを
 イエスの十字架は歴史的には辺境の一出来事にしか過ぎませんでしたマザーテレサの働きは巨大なインドの貧困層に対しては蟻のようなものでしたしかしイエスのいた所マザーと関わった人々の間には神がいたのです「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17,21)あの寡婦は無視される存在にもかかわらず裁判官に訴え続けたのです大海の一滴に似た彼らの働きは目には映らないのですが小さなうねりとなって反響し続けているのです
 私たちがイエスに呼応して「今ここ」に隣人に成って行き続けるとき神は私たちを見放さず確かに共にいて下さるのです
 さあ神において神と共に「苦難にある人々」の側に行きましょう


10月11日() ルカ 17:11〜19
今週のKey Word
「この外国人のほかに神を賛美するために戻って来た者はいないのか

(ルカ 17:18)


 信仰は「今ここ」で私に問われることへの応答でした
 従って神との交わりは「今ここ」での私の応答に実現するのです
 イエスは旅の途中で出会った10人のライ病人の悲痛な叫びに応え彼らを癒したのですそれまでライ病人たちは宗教的社会的に隔離差別され誰一人として彼らの叫びに耳を傾けなかったのですところがイエスの受容はライ病人たちを歓喜させ小躍りさせたのですその存在が認められることは生きるうえでの根源力ですライ病人の一人のサマリア人は内にみなぎる神の力を感じ賛美のため戻ってきたのですしかし他の9人のユダヤ人は来ませんでした
 信仰者とは歴史を越えまた自分の内に働く神を讃える者に他なりません非信仰者は自己の力に寄り頼むものでありますサマリア人に較べ信仰あるといわれたユダヤ人は神とは自己を高めるための道具にしかないのであります
 イエスは言われました「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ1721)イエスはライ病人たちに応えライ病人はイエスに応えましたこの相互の呼応に神がおられるのであります私たちが一方的に神の恵みをいただくばかりで神の呼びかけに応えなければ神との交わりはありません
 さあいただいた恵みに感謝し「今ここ」で出会う人に応えましょう


10月4日() ルカ 17:1〜10
今週のKey Word
「からし種一粒ほどの信仰

(ルカ 17:6)


 金持ちはその恵まれた富をおのれの欲望を満たすためのみに用い乞食のラザロには食卓から落ちたパンくずさへ惜しんで与えませんでした
 私たちが苦難にある人の隣り人に成るのは「今ここ」にであって「いつでもどこでも」ではありませんサマリア人が襲われたユダヤ人を助け介抱したのは偶々その現場を通りかかったからにすぎませんてぐすね引いて誰かを助けようと探し回ったのではありません逆に祭司やレビ人は「いつでもできるから今はやめとこう」とか「仕事があるから」「人との約束があるから」と明日のことを思い煩って助けられなかったのですまた金持ちはいつでもラザロにパンを分けることができたはずでした
 後者の人々は信仰が「ある」「熱心」「篤い」人と見なされ自称してきた者たちでした他方サマリア人はユダヤ人から見れば間違った信仰をしているからと蔑まれたのでしたイエス自身も「罪人」と交わったからと不信仰神を冒涜する者と称されたのです
 からし種の信仰あるかないかわからないとるに足りない無価値のものということです信仰熱心であっても「今ここ」に倒れている人の隣人に成らなければ何なのでしょうか目に見えない風にとばされる信仰でも「今ここ」で応答することが大事なのです
 7回許しを乞いに来た人には7回待つのではなくその都度「今ここに」許すことが求められています
 さあ「今ここ」にいるこの私を許すイエスに倣い苦難を負った人のもとへ行きましょう-


9月27日() ルカ 16:19〜31
今週のKey Word
「ある金持ちがいた…毎日ぜいたくに遊び暮らしていた

(ルカ 16:19)


 「この世」の物を隣人に分かち合うように私たちはイエスの招きを受けています
 しかし私たちは自己の境遇タレントを恵まれたとは思わず自分が獲得した物と錯覚し自分のためにしか利用しないのですある金持ちは人の羨むほどの立派な人物でしたけれども困窮にあるラザロには何の関心も示さず関心あることと言えば如何にもっと利益を上ようかとか何を食い何を着ようかということだけでした
 私たちは医学部の教授を羨ましく思ったり高級官僚を尊敬したりします汚職したり不正をすると何て悪い奴だと憤慨しますもし金持ちがラザロを憐れに思い食べ物を分け与えていたらあるいは教授が自己の才能を病人への奉仕に使っていたらまた役人が不正を正していたならば賞賛するにちがいありません
 イエスは貧しかったですが愛はいっぱいありましたその愛を惜しみなく生命を捨てるまで私たちに与え尽くしました
 さあ私たちも恵まれた境遇を困難にある人々のためにお返ししましょう


9月20日() ルカ 16:1〜13
今週のKey Word
「不正にまみれた富で友達を作りなさい

(ルカ 16:9)


 イエスの「隣り人に成れ」の呼びかけは「この世の価値」に執着しない生への招きでもありました。  私たちが地位名誉財産に固執するとき自己を失い人の眼を気にし仮面を着け振る舞っています。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかす」(ルカ 16:15)と批判されたファリサイ派の人々のようにあるいは放蕩息子の兄のように父親に甘えや弱さを見せず自己に厳しく他者へも厳しい人になります。
 しかし「この世」からフリーになるならば羊を捜し弟を迎えられるのです。「不正にまみれた富」とは「この世的」という意味です。※1従って私たちは「この世」のものに囚われるのではなく上手に利用することをイエスは勧めるのです。地位ある者富のある者才能のある者はそれを自分の利益のため使うのではなく「弱い人々」を守り助けるために用いるのです。  イエスは自分の周りに人々を集めるために生きたのではありません。貧しい人苦難にある人のそばにいるためにご自身のすべてを与えつくしたのです。  さあわたしたちも神からいただいたタレントを「重荷を負った人々」の荷を軽くするために用いましょう。
※1岩波版新約聖書「ルカ文書」p.103。注十三を参照。


9月13日() ルカ 15:1〜32
今週のKey Word
「今週のkey word:見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか

(ルカ 15:4)


 イエスの私たちへの呼びかけ「隣り人に成れ」は「この世の価値」に執着している限り応えられない狭い戸口でしたがその戸口をくぐりぬければ軽やかに颯爽と生きられる道でした
 さて「隣り人に成る」新しい在り方はここで出会った不自由な生を強要されている一人と関わることですイエスが当時の地位ある者尊ばれている者に関わるのではなくむしろ彼らから貶められのけ者にされ生きる権利さへ奪われている「徴税人や罪人」と交わりかけがえのない一人として関わったことまたイエスの語る99匹を残していなくなった一匹を捜す羊飼い放蕩息子を待ちわびる父親の姿は多数を大事にし強者を重んじる「この世の価値」に反する姿勢です
 一匹の羊には家両親妻子どもはありません息子は乞食となり誰からも相手にされませんこの彼を捜し迎えることは99匹からの罵倒兄の叱責にさらされ時には地位財産名誉を失うことになりますイエスが十字架につけられたように
 私たちは所有してる物を失うまいとするときなんと不自由で狭く重々しい生活をしているでしょうか上の人に取り繕い周囲とは円くおさめなければなりません好きなことを言うこともすることも出来ませんその限り私たちは「弱い人」を理解し交わることはできません
 イエスは一人一人を大事にし空となって私の隣りにいて下さいました
 さあ私たちは今日ここで「重荷を負った」一人の隣り人に成り軽やかに颯爽と街を闊歩しましよう


9月6日() ルカ 14:25〜33
今週のKey Word
「自分の持ち物を一切捨てないならばあなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない

(ルカ 14:33)


 イエスは私たちに「隣り人に成る」よう招いています
 しかしその道をイエスは分裂狭い戸口一切の放棄と呼ぶために私たちはとても厳しいものと思い断念してしまいますイエスの呼びかけはそんなに難しいものなのでしょうか選ばれた少数の者にしか出来ないのでしょうか
 私たちがイエスの呼びかけに応じられないのは「この世の価値」に執着しているからです出世蓄財親孝行家族愛これらの実践は素晴らしいと褒めたたえられるのです逆に怠ったり軽んじたりすると人でなしとかなまけ者と馬鹿にされるのです私たちはそう見られたくないないので無理にもしてしまうのですそれに対しイエスはそれらのものを憎め捨てろと言うのですから私たちは無理だと反発するのです
 「この世の価値」は私たちをほんとうに「幸福」にするのでしょうかむしろ束縛しているのではないでしょうか例えば家族愛はかえって互いを依存しあい自立を妨げていないでしょうか出世や蓄財は不正を犯さないでしょうかまた私たちがあの「寅さん」に憧れるのは何故でしょうか
 イエスの呼びかけは私たちをもっと自由にならせますあのサマリア人が親子どものこと商売のこと生命のことを重んじたら傷ついた人を助けられませんイエスはそれらのものよりもっと大事なことがあると訴えています
 さあ古い衣を脱ぎ捨て身軽にイエスに従いましょう


今週の一分間説教 Gospel on this week