ももちゃんの一分間説教
「へりくだる者は高められる。」
(ルカ 14:11)
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イエスの他者と共に生命を分かち合う生き方は、すべての人に開かれていますが、「この世」では分裂をもたらし、からし種のように小さく、狭い道となっています。
「この世」の私たちの生き方は、婚宴の上席に座ることを目的にしています。そのためには、一流の学校への進学、有名な会社への就職、名門の家との結婚、という狭き門を突破して勝利者にならねばなりません。我が国では大蔵省のキャリア官僚のように接待を強要したり、部下の話を机に足を乗せふんぞりかえって聞くことが「偉く」なったことなのであります。「この世」では、「偉い人」たちは、弱い者、知識のない者、貧しい者、病む人々を虫けらのように扱います。仕事を失い、家を失った人たちにはただ追い払って、餓死しようが凍死しようが全く気にかけていません。安息日に病人の苦しみに同情しないユダヤ人と変わりありません。少し、知識があり、職を持っている者たちは、彼らとの比較で「偉い」と自己評価し、彼らは自分たちより劣っているから自業自得と見捨てています。
他方、イエスの「神の主権」の下での生は、すべての人を食卓に招かれます。なかでも、「この世」が拒否、排斥する貧しい人、病人、外国人を招待します。しかし、招待された「偉い人」たちは、彼らと同席することを好まず、出席を断わるのです。その意味では、やはり入り口は狭いのです。イエスの食卓は有償ではありません。神からの一方的な贈り物です。
さあ、私たちは、喜んでその食卓を囲み合いましょう。
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「狭い戸口から入るように努めなさい。」
(ルカ 13:24)
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イエスの生は、「この世」に分裂をもたらしました。それは、利己主義的生き方から、自己譲与的生、「隣り人」に成る在り方への回心に私たちを招いています。
しかし、三年もの間実を結ばないいちじくの木のように、私たちの多くは自分の生活を守るためその呼びかけを無視しています。また、18年の長い間、病に苦るしんでいる女性を憐れまない会堂長のように多くの教会は、病人や貧しい人々の隣人には成っていません。更に、今や、教会は山の上にはなく、声も挙げず「この世」に同化しています。回心どころかますます紛争、暴力、貧困、自然破壊が進行しています。いったい、イエスはどこへ行ってしまったのでしょうか。
今、この世は圧倒的に利己主義に支配されています。その中で、イエスはからし種という狭く厳しい入口であります。私たちはその入り口を塞ぎ、安易な生き方を好み身を滅ぼそうとしています。しかし、イエスのように自己を分かち合うことによってしか世界は救われないのであります。
さあ、イエスといっしょに狭い戸口をくぐりましょう。私たちはイエスのからし種のパワーで大きく変身出来るでしょう。
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「目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ。」(ルカ 12:37)
イエスが招かれる「隣り人に成る」ことは、私たちの人生の随意的な事柄ではなく、責任でした。
しかし、この「隣り人」に成ることは、「この世」的生き方と対立します。それは、「この世」的生が、倉を大きくし自分の快楽のために富を蓄える金持ちであり、 弱い者のことを省みられない有能なマルタであり、私たちの糧ではなく「私の糧」を求める祈りであり、強盗に襲われ倒れた人を無視して自己の立場を守る祭司であり、優秀さを競う律法学者の生、即ち、自己増殖的生であるからです。他方、「隣り人」に成る生は、サマリア人のように危険を顧みず無になること、羊飼いのようにいなくなった羊を損害や非難を恐れず探し続けること、そして、十字架の死まで己を空にし隣り人になり続けたイエスの生、即ち、自己譲与的生です。
今日の私たちの生活はますます自己防衛的になっています。失うまい、手放すまい、見逃すまい、と隙を窺いつつ利益を得ることに専心し、その結果、他者の苦悩、悲しみに無関心となったり、同情しつつも身を切るまでは手を差し伸ばそうとはしません。無関心の故、私たちの周りには居場所のない子ども、老人、障害者、ホームレス、外国人が溢れています。利益を守る人々は、彼らを排除するばかりであります。
イエスはユダヤの人々から排除拒絶されたザアカイの隣人に成ったため拒否磔刑に処せられました。
「隣り人」に成ることは私たちを分裂させます。しかし、それは、共生へと向かいます。
さあ、自己を空にし「この世」と分裂した生を生きましょう。
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「主人の思いどおりにしなっかた僕は、ひどく鞭打たれる。」
(ルカ 12:48)
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慈父母である神のもとに生きたイエスは、己を空にし、無力である人々の隣りに座りました。そのイエスに出会い神のもとに「新生」を与えられた私たちは、同じく、「隣り人」になるよう招かれています。
さて、「隣り人」になることは、わたしたちの責任である、と今日の福音は語っています。それは、主人の帰りをいつでも用意して待っている忠実な僕として譬えていることからわかります。私たちの生は、僕の仕事のようなものであります。主人から任せられた僕は主人の思いを忠実に果すことが求められています。同じように、私たちは、ユダヤ教指導者のように貧しい人たち、病人たちを差別し、抑圧して利益を得たり(ルカ11:45参照)、あの金持ちのように蔵を建て、そこに自分の富を蓄えるように、人生を自分のものと錯覚してはいけません。私たちの人生は、イエスやサマリア人のように、自分を無にして、あるいは「売り払って施し」、貧しい人々と共にある「任せられた生」なのであります。
世界各地の紛争や飢え、あるいは、我が国の子供たちの叫びが連日報道され続けています。私たちが、それらの訴えに耳を貸さず、立ち上がらなければ、慈父母の神は私たちを「ひどく鞭打たれる」のであります。
さあ、イエスの命を贈られた私たちは分かち合う生に変えて行きましょう。
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「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」
(ルカ 12:20)
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「主の祈り」を祈る度毎に私たちは、自分の糧だけではなく、「私たちの糧」をも求めています。
さて、今日のたとえ話は、「この世」の至上とする生き方を批判し、「神の国」における生への方向転換に導いています。ある金持ちは、自分の倉に一杯宝を蓄えることが生きがいでありました。今日と同様に、古代ユダヤにおいても金持ちは貧しい人々を搾取していました。「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでにこの地を独り占めしている。」(イザヤ 5:8)、「彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ 悩む者の道を曲げている。父も子も同じ女のもとに通い 私の名を汚している。」(アモス 2:7)
この金持ちは、あくどく金を儲けることさへ自己の才能のなせる業として誇っていました。律法学者は天才と誉められることを求め、マルタは有能さこそイエスに認めてもらえると信じていました。彼らは一様に自己に宝を積み、他者の痛み、苦しみには無関心でいました。
しかし、そもそも、私たちの能力は自分のものでしょうか。命が与えられたように、才能も私たちに贈られたのです。それは自己への奉仕に用いられるためではなく、他者への奉仕のためにいただいたのです。
この金持ちは蓄えた物で「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に言いました。それに対しイエスは「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と呼びかけました。イエスには無力な私たちを養い育てる慈父母の神へのの全き信頼に生きていました。私たちに必要な物は神が備えてくださる、だから、蓄えることはいらない、欠けている人たちに分け与えなさい、と。
私たちが無力であり空っぽであるならば慈父母の神におまかせし、マリアや襲われたユダヤ人の隣り人になることが出来ます。自分の才、財に頼るならば、思い煩いし、他者を傷つけるのであります。
さあ、自分のパンが私たちのパンになるように「主の祈り」を祈りましょう。
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「求める者に聖霊を与えてくださる。」
(ルカ 11:13)
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無力なマリアと共に座りなさいとイエスは私たちを招いています。
イエスを試みた律法学者は自己を誇ろうとして「隣り人」に成れませんでした。マルタは自己の有用性に頼り、マリアの心に気づきませんでした。同様に私たちも自分の信仰の強さを認めてもらおうと、例えば、祈りをこんなにたくさん、こんなに長くやっていますと自慢げに話し、また、私の祈りは聞き入れられた、だから、あなたも祈りなさいと説教したりするのです。この場合の祈りは神を利用する祈りとなっています。
しかし、イエスの教えた「主の祈り」は、自己を立てるための道具ではありません。むしろ、罪深く、無価値な私を認めさせ、無力な私を嫌悪させてしまいます。が、そんな私をも受け容れ許して下さる神の慈愛を想い起こしたとき、神と他者に仕えて生き直そうと、私を奮い立たせます。無力な私を立ち上がらせるのは聖霊であります。それゆえに、イエスは祈り求める私たちに神が「聖霊を与えてくださる。」(ルカ 11:13)と言明しました。
マルタは自分の無力さに気づかなかったのです。そのためにマリアの隣りに座れなかったのです。私たちも自分を優秀だと思っている限り自分の弱さを認めず他者を非難し、いじめているのです。
「主の祈り」は私たちを他者との共生に導きます。
さあ、私たちはマリアといっしょにイエスの前に座し、聖霊に強められて苦難にある人々のもとへ行きましょう。
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わたしたちの福音宣教は、自分を捨て、「隣り人」になることである、とイエスは語られました。しかし、イエスを試みたユダヤ教律法学者は自己を保存し、自己の正当化を主張するため「隣人」の概念を問うのみでありました。
マルタにとってイエスを喜ばすためには自分の能力をフルに使ってもてなすことでした。マルタは今日こそ自慢の料理をイエスに食べさせようと、夢中で猫の手も借りたい程だったのです。そしてマリアの手助けがあれば完璧な料理を拵えられる、と思っていたのです。けれども、あてにしていたマリアが何もしようとしないのでマルタは焦ってイエスがマリアに命じるよう苦言を呈したのです。
マルタの心は自分のことで一杯で,マリアの立場をおもんばかれなかったのです。マリアは体調がすぐれなかったかもしれません。あるいは、悩みが一杯でイエス慰められたかったのかもしれません。また、マルタのように働くことは苦手だったのかもしれません。マリアに出来ることは無力な我が身をイエスの前に晒すことだけでありました。
私たちも、日々、成果を得た人たちには努力家、偉い人と賞賛し、成果のない人々には怠惰,無能と蔑んでいます。
強盗に襲われ半死半生となったユダヤ人は律法学者にとって関わるに値する人ではありませんでした。律法学者には掟の一点一画も漏らさず暗記することの方が利益になり、名誉になったのです。他方、サマリア人にとってはともかく近寄って行くべき人であって、たとへ身を削り、災難が降りかかることになったとしても介抱しなければならない人であったのです。
マルタにとっての「良い方」とはマリアの傍らに座ることでした。マルタにはマリアと共にイエスの話を聞くことがマリアを裁くのではなくマリアの「隣り人」に成ることだったのです。イエスがマリアの「隣り人」であったように。
さあ、私たちも、この世の尺度で人を批判するのではなく、イエスの目、神の心を持ちましょう。
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「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。」
(ルカ 10:25)
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イエスは弟子たちを派遣したように私たちを福音宣教に招かれます。イエスの宣教は、悪霊を退治しました。(主よ、お名前を使うと、悪霊さへもわたしたちに屈服します。同10:17)そして、その驚くべき宣教に遣わされた人たちは、この世の優れた者たちではなく「幼子のような者」(ルカ 10:21)たちでありました。
このようなイエスの働きに対し、胸中穏やかでないのがこの世の知恵ある者や賢い者たちです。彼らは、伝統的価値観に照らして自分たちの正当性を訴えようとするのです。即ち、自分たちのように、他者より秀でて律法の研究とそれを文字どおり守ることこそ「永遠の命を受け継ぐ」(ルカ 10:25)であり、病人を癒したり、貧しい人々や罪人と会食をするといった「律法に反する」ことを行うなんて言語同断だと思っているのです。従って、イエスは正当ではないことを証明するために隣人とは誰かと聞いたのでした。何故ならば、彼らにとっては病人や貧しい人々は「律法的に汚れた者」として近づいてはならない人たちであり、「隣人」は律法的に清い「ユダヤ人同胞」に限られていたからです。(参照、岩波版新約聖書U『ルカ文章』p、70脚注一)
わたしたちの教会においても、正義と平和、環境保護といった社会的活動に対し権威とか伝統を盾に、非難中傷あるいは無関心が多くみられます。しかし、正当性の主張は自己を守ることであります。一方、イエスは神に自己を委ね無になりました。愛アガペーも無になることです。サマリア人は強盗に襲われた人を助けようと、自分を捨てました。祭司やレビ人は己を守りました。
私たちの教会も守るのではなく、捨てたとき「隣人」になれるのです。
さあ、私たちはちゅうちょすることなく、倒れている人々のもとへ駆け寄りましょう。
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「この家に平和があるように。」
(ルカ 10:5)
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自己に寄り頼まず、神にすべてを委ねて生きよう、と私たちはイエスに呼ばれています。
イエスの福音宣教そのものが神のみに信頼する旅でありました。即ち、「枕する所も」なく、家々の好意を頼り歩く道程でありました。現代の私たちは、宣教というとすぐ土地だ建物だと言って大騒ぎをし、宣教が教会を建設することのみになっています。そして、神の主導ではなく、金力に頼り、そのために宣教どころではなく商売が優先となっています。そんな教会に何の魅力があるでしょうか。
一方、イエスと弟子たちには何にもありませんでした。それは、無力さゆえに神と人を頼るためでした。人の好意にたいし平和を祈ることしか返せないのです。教会の建物の豪華さではなく、神への信頼と人へのへりくだりこそが福音なのです。
さあ、私たちのパンを空にしましょう。神は必ず備えてくださるのです。
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「人の子には枕する所もない。」
(ルカ 9:58)
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福音を告げるイエスの旅は、自分を捨て、十字架を背負う道行でありました。
さて、多くの人たちがイエスに同行しようとやって来ました。その彼らにイエスは言います。その旅は「枕する所もない」野宿放浪生活であること、死者の葬りの出来ないこと,家族との縁を切ることであると。定住定職、死者への供養,家族の尊重、これらはこの世が推奨する価値であります。人々はそれらを手に入れ、また、守ることによって「名誉」を受けます。一方、定職を持たない人、野宿生活者、先祖供養を怠る人、家族を大事にしない人たちには、「なまけ者」「親不孝者」と蔑視します。
この「名誉」を得る人とは、他人の目に従って生きる人である、と言われています。(名誉は、自分を常に他人の目を通して見、自分の存在のために他人を必要とする個人の道徳律の基本である。というのも、彼が自分について抱くイメージは、他人から彼に差し出されるイメージと区別できないからである。)※@
従って、イエスは彼らに弟子に相応しくないと語ったのであります。何となれば、イエスの「福音的」生き方とは、すなわち、神への全き信頼であります。それゆえに、「自己を捨てる」自力に頼まないのであり、あのパンの奇跡も自分のパンに頼むことではなく神の慈しみに頼った結果なのでありました。
今や、他人の目に縛られ、自己を見失い、居場所のない若者たちが、暴力、ドラッグ、オカルト宗教に逃げ込んでいます。イエスの神に信頼する生き方は、私たちと彼らにとって福音であります。
しかし、まず、私たち自身がそれを証ししなければなりません。
さあ、イエスに従って、「福音的」生を生きることにより、囚われた人々の解放を手伝おうではありませんか。
※@ジョン・ドミニク・クロッサン「イエス」p.122新教出版社
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「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
(ルカ 9:23)
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みなが満腹するように互いのパンを譲り合おうと、イエスは私たちを招かれました。そして、あのイエスの神の子性とは、自分を空にし私たちに渡された、ということであります。
しかし、ペトロたちにはそのことがわからなかったのです。物乞いでしか生きていられない多くの貧しい人たちとイエスに促されてパンを分かち合ったとき、互いが満足したことをその目で見たにもかかわらず。
イエスは彼らに尋ねました。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが代表して答えました。「神からのメシアです。」私たちはイエスを「神の子」だとよく言い表しますが、その意味をどのように掴んでいるかははなはだ心許ありません。ある場合は、麻原をメシアだと言うのと変わりません。ペトロらも伝統的メシア像に縛られていました。いわゆる、ローマからの政治的独立をもたらすメシアであります。従って、パンを分けるにあたっても自分のを削るなんてケチなことをせずに、多額の資金で大量のパンを購入し、食い飽きるほどのパンを鳴り物入りで配ることを想像していたにちがいありません。
そのような彼らに、イエスは「苦しみを受け排斥され、殺されるメシア」であることを教え、その弟子であることはイエスと同じように「自分を捨て」ることであると明らかにされたのです。
さて、自分を一番に大切にしている私たちが自分を捨てられるでしょうか。イエスは言われます、「自分の十字架を背負って。」自己を捨て切れないその弱さに押し潰されながら、何度も何度も挑戦しなさい、と。
「十字架」恐く、重たいことばですが、イエスの十字架は何と慰めの言葉でありましょうか。
さあ、イエスに強められて、自分のパンを「苦難にある人々」に譲りに行きましょう。
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6月14日(日) キリストの聖体 ルカ 9:11〜17
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混沌と闇に被われたこの世界に光を灯すようにイエスは私たちを招かれました。
聖書にはイエスは弟子たちを、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」(ルカ 9:2)遣わした、と書かれています。弟子たちは、方々の村や町へ出掛け福音を告げました。イエスらの働きを知った苦難を負わされた人々は、続々とイエスのもとへやってきました。クロッサンによれば、それらの人々は「病気や借金、徴用や死によって土地を追われ、極度の貧困と物乞いを余儀なくされた人たち」と言っています。従って、それらの人々はいつも飢えていました。イエスの目には彼らの様が映っていました。しかし、弟子たちの目には入っていなかったのであります。弟子たちはイエスに言いました。「解散させてください」(ルカ 9:12)※@
私たちの教会は説教したり、祈りましょ、とさかんに、いわば、精神的サポートはしますが、生活上の実際の支援になるととたんに口を結んでしまいます。お互いの身を削りたくないからであります。弟子たちは自分のパンを削りたくなかったのであります。
しかし、弟子たちがパンを出し合ったところで、みんなが満腹するとは到底考えられません。現在、私たちの炊き出しには500人以上のホームレスが食べに来ます。用意する米は25升になりますが、十分でありません。一人の食べる量はほんのわずかしかありません。もし、彼らの一人が足りないと騒げば暴動になってしまいます。幸い、そんなことは起きていませんが、みんなが互いに譲り合っているからこそ平穏が保たれています。
「すべての人が食べて満腹した。」私たちが譲り合うところにそれが実現するのでしょう。
イエスは私たちに身をゆずりました。
さあ、私たちも心と労力を譲り暗闇に光を点けに行きましょう。
※@ジョン・ドミニク・クロッサン「イエス」p、109 新教出版社
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今週の一分間説教 Gospel on this week
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