ももちゃんの一分間説教
6月7日(日) 三位一体の主日 ヨハネ 16:15
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「父がもっておられるのはすべて、わたしのものである。」
(ヨハネ 16:15)
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聖霊を受けた私たちは、混沌と闇の支配するこの世に光を輝かすよう招かれています。その光が何であるかはイエスの生涯に示されました。
しかし、イエスを拒否したユダヤ教の人々は、イエスにその光である「父なる」神のみ心を認めなかったのです。私たちもややもすれば自分勝手な光を作り出し、押しつけたりするのです。教会の歴史においても人間が神になり幾度も偶像を拵え多くの人々を苦しめてきたのです。
私たちが、イエスにおいて神のみ旨を見いだすためには聖霊の働きに頼る他ないのです。(「真理の霊」が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。同16,13)聖霊により私たちは、イエスを想起し、イエスの愛に触れ、イエスの生涯に、自己の生き方と世界の有り様を照らし出し、イエスの思いを実現しようとするのです。私たちが二千年の時を経ても聖書からイエスとの出会いを経験できるのは、その聖霊の働きなのです。
さあ、今日、私たちは聖霊に導かれ苦難を負った人々に灯りを点しに出かけましょう。
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5月31日(日) 聖霊降臨の主日 ヨハネ20:19〜23
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十字架上で亡くなったイエスは、私たちの内と外に働き私たちが「苦難を負った人々」と共に生きるように導かれています。その私たちに働きかけるイエスを聖霊であると聖書は語っています。
十字架で処刑されたイエスは、恐怖と失意のどん底にいた弟子たちを愛して、彼らを許し、励まし、宣教に派遣しました。その際、彼らに自分自身である聖霊を授けました。聖霊によって弟子たちは『使徒言行録』に描かれているように死をも恐れることなく宣教し続けました。
イエスの極みまで自己を明け渡された弟子たちは、その愛に気づくまで無力感と罪業の深さに苛まされていました。その彼らを立ち直らせた聖霊は、あの天地創造賛歌に描かれている「神の霊」(創 1:2)であります。創造以前、地は混沌であり、闇が深淵を覆っていました。神の霊はその混沌と闇に働きかけ、神の言葉により、その暗黒の世界に「光」を創造したのでありました。聖霊は前途真っ黒な弟子たちの内に「光」を創造したのであります。
今や、世界は環境破壊、印パの核開発競争、貧困、暴力による闇に覆われています。我が国では長引く不況による生活苦や失業者の増加と、ホームレスの急増に何の有効救済策のないこと、また、深刻化する青少年の犯罪に暗澹たる気分が蔓延しています。
今、私たちが聖霊を受けることは、この混沌と闇の現状に「光」をもたらすことに他なりません。
さあ、私たちは自己の無力さゆえにこそ聖霊=イエスの力を受けて、青少年、ホームレスの隣人、世界の苦難を負った人々の友となり闇を明るくして行きましょう。
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5月24日(日) 主の昇天 ルカ 24:46〜53
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「あなたがたはこれらのことの証人となる。」
(ルカ 24:48)
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イエスは私たちを「新しい生」に招かれました。しかし、私たちは呟きます。「イエスはどこにおられるのか。助けを呼んでも現れないではないか」と。私たちのイエスはどこに行ってしまったのでしょうか。
さて、生前のイエスの宣教旅行に付き従った弟子たちは、何一つ自分たちでは出来ず無力、無信仰でした。例えば、病気癒し、悪霊追放、パン増やしが出来ませんでした。また、病人、女、取税人、貧しい人々の「隣人」には成れませんでした。それでいて、仲間内では権力争いをしたのでした。また、嵐の中ではうろたえ、沈みかけ、ついには、イエスを捨てて逃げたのです。まるで弟子たちは親猫にしがみつく子猫のようにイエスに付いていたのです。
イエスは弟子たちがひとり立ちするように、彼らから離れなければならなかったのです。そして、弟子たちはイエスと別れてから地の果てまで「証人」となって行ったのです。
地上には姿を見せないイエスは、天において、また、私たちの内において、さらに、典礼において、私たちの「隣人」と成っているのです。
さあ、いつも共にいてくださるイエスと「新しい生命」を生きましょう。
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「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」
(ヨハネ 14:23)
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弱さを負った私たちに、イエスは「隣り人」に成るよう招かれます。キリスト教の信仰とは、信仰箇条を鵜呑みするとか、マリア崇拝とか、イエス大好きとイエスの神格化ということではありません。イエスの生涯、イエスと人々の出来事、イエスにおける神の働きを想いだすことにより、癒しと慰め、許しをいただきイエスにおいて「苦難を負った人々」の隣人に成ることであります。
従って、隣り人に成ることは、あのユダヤ人のように「隣人」とは誰かと探すことではありません。私たちとホームレスの関わりにおいても、ホームレスに対し働けばいいとか、もう少し頑張ればとか、臭い汚いからイヤだとか、いろいろ条件をつけて、それに適うなら,ボランティアしましょう、ということがままあります。しかし、あのサマリア人のように自分らを差別する不倶戴天の敵であるユダヤ人を助けた如く、隣り人に成ることには条件はないのであります。
むろん、隣人に成ることは易しいことではありません。しかし、イエスは次のように語ります。「父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ 14:23)即ち、イエスは神と共に罪人である私たちとのそばに居てくださり、働いてくださる、というのであります。
「隣り人に成る」のは私たちではなく、イエスなのです。
さあ、クレドがどんな意味か首をかしげるのに時を費やすのではなく、捨て身になって、「苦難を負った人々」の友に成りに行きましょう。
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「あなたがたに新しい掟を与える。」
(ヨハネ 13:34)
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私たちが、イエスを想い出すとき、私たちの生命は新たになります。しかし、この世は私たちを誘い自己の欲を満たす古い命に連れ戻そうとします。イエスから招かれた弟子たちも同じでありました。
イエスから「私に従いなさい」と声を掛けられた弟子たちは,生業を捨て、「人を漁する」即ち、人と関わる生を始めました。イエスの働きが次第にユダヤの民衆から熱狂的に支持されて行くと、弟子たちは人との関わりを忘れ互いに地位争いをはじめました。そして、イエスが官憲に命を狙われると、彼らはイエスを裏切り、一目散に逃げ、また、ある弟子は身を守るためにイエスを官憲に売り渡してしまいました。
しかし、イエスはそんな古い命を引きずった弟子たちの足を洗い、あなたがたも互いに足を洗い合うように、と呼びかけ、互いに愛し合え、と新しい生命のありように招かれたのです。ということは、古いこの世の命は「裏切り」であり、イエスにおける新しい生命は「許し」だ、ということです。
私たちはイエスに従うようにと言われて、「苦難を負った人々」の隣り人になろうとするのですが、思うようにいかなかったり、非難されたり、身を切ることになると、放棄し、自己に閉じこもってしまうのです。しかし、その時、イエスを想い出しましょう。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
さあ、イエスが私の隣り人になってくださったように、私たちも互いの隣り人に成りましょう。
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「わたしは彼らに永遠の命を与える。」
(ヨハネ 10:28)
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復活のイエスは、ペトロをはじめとする弟子たちの弱さを担い,「新生」に招きました。それは、「食うこと」「働くこと」をイエスと共にする生でありました。
しかし、その「新生」に対し、この世の指導者たちは中傷します。イエスは「悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」(ヨハネ 10:20)まさに、この世の権威者たちはイエスが言うところの「盗人であり、強盗であ」(ヨハネ 10:1)ります。私たちが、この世の人々から惑わされないためには、イエスが生命を奪ったのではなく私たちに与えられたことを、想い出さなければなりません。今の政治家は、言葉巧みに景気回復だとか、主張して、大量の資金を投入しますが、結果的には、将来、増税となり高齢者や弱者には負担を強いるのであります。彼らの人生は、自分の生命を守ることしかなく、他者の命は奪ってもかまわないのであります。同じく、ユダヤ教指導者たちも自己の権威を守り、ひいては、利益を得ることしか考えていないのであります。
私たちは、ご自分の命を無にすることにより苦難を負った人々の生命を豊にしたイエスこそが「良い羊飼い」であることを想い出さなければなりません。
「新生」に招かれた私たちは、想い出すことによりイエスとの永遠の交わりが出来るのです。「私は彼らに永遠の命を与える」(ヨハネ 10:28)
さあ、イエスとの交わりによって、私たちも自己を空にし、苦難を負った人たちの「隣人」に成りに行きましょう。
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「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」
(ヨハネ 21:4)
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復活のイエスに立ち上がった弟子たちは、以前の生活に戻りました。ペトロらはガリラヤ湖での漁に励んでいました。しかし、以前の彼らと決定的に違うのは、イエスが共にいる、ということであります。漁をするにしても、食事をするにも、イエスが彼らに声をかけています。
イエスの旅は、自己を「空」にする十字架の道でありました。イエスは、人々の期待、弟子たちの願いさへ「無」に帰したほど「自己を明け渡し」ました。一方、弟子たちは自己を「空」に成りきれず、己の弱さに躓き倒れました。しかし、イエスはそんな弟子たちを罰することなく「空」になって、彼らの弱さを受け入れたのであります。
従って、聖霊を受け甦った弟子たちの生活は自己に頼り、己を満たすためではなく、イエスに頼り自身を「空」にし「隣り人」になることに他なりません。同様に、イエスと出会ったキリスト者の生き方も「生活」と「信仰」が分離するようなものではなく、イエスと在る生活にならなければなりません。
さあ、仕事も食事もイエスとしようではありませんか。
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「だれの罪でも、あなたがたが赦せば,その罪は赦される。」
(ヨハネ 20:23)
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墓を訪れた女たちに、天は語られました。「ここにはおられない。復活なさったのだ。」即ち、イエスは記念碑の中に閉じ込められて礼拝されるのを待っているのではなく、今も、生きて働かれていることを告げられたのであります。
イエスの処刑後、弟子たちは逃げ、じっと息を潜めて隠れていました。なす術も、希望も、自信も喪失していました。そんな彼らのところへイエスが来られました。イエスの方から現れたのであります。そして、彼らに言われました。「あなたがたに平和があるように」
イエスは、生前と同じように、打ちひしがれた人々の「隣り人」に成ったのです。「隣人」と成ることは、その人の罪をゆるすこと、ありのままを受け取ることでもあるのです。従って、イエスは弟子たちに、あなたがたこそが「隣り人」に成るようにと派遣するのでした。そして、もし、あなたがたが人々の罪をゆるさなければ、人々は弱さのうちに孤独に見捨てられてしまうのだ、と語るのでした。
さあ、私たちも多くの過ちをゆるさています。イエスの息吹に立ち直り、「隣り人」に成りにでかけましょう。
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