ももちゃんの一分間説教
1997年12月7日(日)待降節第二主日 ルカ 3:1〜6
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今週のKey Word:「アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(ルカ3:3)
「目を覚まして祈り」神の内に生きるようにイエスに招かれた私たちは、その福音を人々に告げ知らせる責任があります。
神の言葉は、富める者、力のある者にではなく、貧しく、力のない者に降ります。前者は「この世」に根を下ろし、即物的快楽を貪ろうとしています。そこでは、足を踏みつけられている人々の痛みと苦しみにはいっこうに気になりません。
神の言葉が降るはずの大祭司たちは、神殿に詣でる貧しい人々から税金や供儀料を搾取しても何の痛みも感じませんでした。それよりも、自分らを批判するイエスを計略をもって殺害して、その権益を守ったのでした。彼らはマモンという「神」に仕え、まことの神の言葉が聞こえていなかったのでした。
一方、「この世」では無価値と見なされる人々に神の言葉が降ります。イエスがまさにそうであり、ザカリアの子ヨハネがしかりであります。彼らは、無価値な自分を選ばれた神に己らの生涯を捧げました。権力者たちの耳に痛い福音を伝えて命を奪われるまで神に従いました。
私たちは、自己の罪深さ、無力さにもかかわらず、神はイエスにおいて徹底的に愛されました。それは、私たちを通して福音が「この世」に届くためなのであります。
さあ、私たちは「この世」に愛想ばかりをふりまくのではなく、福音を語る者となりましょう。
1997年11月30日(日)待降節第一主日 ルカ 21:25〜36
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今週のKey Word:「心が鈍くならないように」(ルカ21:34)
イエスは私たちが「この世」にではなく、ご自身と神に繋がって生きるように招かれました。
しかし、私たちの人生は目前の暮らしに追われて多忙となり、つかのまの休みには即物的快楽に耽るのみの空しく淋しい刹那的有り様となっています。現代日本はこの即物的快楽、すなわち、金銭・物欲・権力、支配欲を満たそうと突進しました。また、人々は、そのおこぼれを手に入れようと競争レースに心身をすり減らしてきました。その結果、バブル崩壊、不正取引、金融業の破綻倒産、大量失業等に見られる今日の姿となり、上記の生活となりました。
私たちの生活が空しさから脱却するためには、これまでの即物的快楽を得る「この世」的人生観ではなく、「人の子の前に立つ」(ルカ21:36)ことのできる人生に方向転換しかありません。しかし、私たちは今日の糧を得なければなりません。それゆえに、「心が鈍く」ならないように「目を覚まして」神の支配を透かして見続けましょう。いかに今が困難であろうとも、神は働き続けている野であります。
さあ、私たちは「目を覚まして祈り」神の内に生きて、永遠の喜びを得ようではありませんか。
1997年11月23日(日) ヨハネ 18:33〜37
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今週のKey Word:「お前をわたしに引き渡したのだ。」(ヨハネ 18:35)
イエスが私たちを招かれた神に土台を置いた人生は、「この世」と妥協するのではなく、むしろ、全ての人の人生が祝福されるものとなるよう変革を目指すのであります。
しかし、「この世」で栄達を求める人々は、もっと手に入れようと、あるいは、
それを失うまいと画策します。イエスの弟子のひとりユダは、自分の描いた出世の夢を失うまいとイエスを大祭司に「渡し」※@ました。※@岩波版。新共同訳「裏切る」。大祭司たちは権益を確保しようとイエスをピラトに「引き渡し」ました。
イエス以後の教会がイエスを「この世」に引き渡してきたことは歴史が明らかにしています。現代日本の教会も現状維持のためイエスを換骨奪胎し引き渡しています。その結果、教会は高齢化少子化となり結婚産業としてか生き残れなくなくなりました。
一方、イエスは土の中にタレントを埋め込むのではなく、貧しい人々、困難にある人たちが人間らしく生きられるように、己を空にし父に「引き渡された」のでありました。ということは、「この世」の変革は自己を無にすることによってだけなされるということであります。
さあ、私たちは自分さへ良ければから脱し、路上に生活する人々が一刻も早く人間らしい生活のできるよう、イエスに身を引き渡しましょう。
1997年11月16日(日) マルコ 13:24〜32
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今週のKey Word:「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ 13:31)
私たちは、人生の土台を富において身を滅ぼすのではなく、他者と共に永遠に生きるようにご自分と神にその土台をおくようにイエスから招かれています。
私たちが神に根を下ろすならば、私たちが生きる場は「この世」ではなく、神の国であります。「この世」は無常であり変転し続けます。イスラエルの歴史は興亡を繰り返し、イエスの弟子たちが賛嘆した富と権力の象徴であるエルサレム神殿も二度破壊されました。その原因は、権力者たちが正義と公平を行わず、貧しい者や寡婦、孤児を虐げたからだと、預言者たちが告発しています。
今日も同じです。大国が小国や貧しい国々を抑圧し、強者が弱者を食い物にしているのです。温暖化とともに世界が海面下に没しようとしているのです。
しかし、私たちが互いに助け合って生きようとするならば、破滅へのスピードは減速され、反転するでしょう。また、互いに愛し合うことにより、人生は美しく良いものになるでしょう。富や権力はうつろいやすいけれど、愛(=イエスの言葉)は決して滅びないのです。
さあ、私たちは「この世」の言説に惑わされず、イエスの言葉のうちに、今を生きましょう。
1997年11月9日(日) ヨハネ 2:13〜25
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今週のKey Word:「この神殿を壊してみよ。」(ヨハネ 2:19)
イエスはご自分のもとに来られる人を一人も拒まず、愛されます。そのイエスに従おうとする私たちは、「重荷を負った人、疲れた者」たちと共に永遠の生命を生きるように招かれています。
さて、「この世」に囚われた人々は、自分の利害を守るために巧妙に「弱い」人たちを犠牲にします。イエス当時のエルサレム神殿は、宗教指導者たちが経済的利益を得るため貧しい人々を搾取するための機能を果していました。従って、神殿の秩序を維持することは彼らにとってまさに死活問題でありました。イエスはその神殿を清めようとしたのでした。当然、ユダヤ教指導者たちは、イエスを亡き者にし、利益を守ったのでした。しかし、エルサレム神殿は紀元70年にローマによって破壊され、彼ら指導者たちも滅亡したのでした。一方、イエスはその後2000年たった今も生き働き続けています。ユダヤ教指導者たちが生きるうえで寄り掛かった権威は、利益を生み続ける神殿でありました。イエスが依拠した権威は自己を与える愛の神でありました。利益は人々を争わせ、互いに殺し合います。愛は人を生かし育てるのであります。
さあ、私たちも利益を求めて、結局、自分を滅ぼす生き方から、自己を放棄して他者と共に生きる復活の道を歩もうではありませんか。
1997年11月2日(日) ヨハネ 6:37〜40
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今週のKey Word:「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さな
い。」(ヨハネ 6:37)
目の見えず、人に物乞いをしてしか生きられないバルティマイは、もっともっと良く生きたいとの熱情からイエスに叫んだのでした。重い皮膚病の人は清められたい一心でイエスのもとへ飛び出して行きました(マルコ2:40〜)。12年間出血の止まらなかった女は治りたいとの一縷の望みでイエスの服にそっと触れたのでした(マルコ5、21〜)。
イエスは語られました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)ここの「罪人」は、いわゆる犯罪者をも指しますが、むしろ、宗教的・社会的弱者を謂います。即ち、貧乏人、女、子供、病人、外国人、特定の職業に従事している人、等であります。また、イエスは次のように語られます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)これらのように、イエスは効率を優先とする「この世」においては負の人びとを招かれるのであります。しかも、彼(女)らが休息、あるいは、癒されされても、それは、彼(女)らを「この世」へ帰還させ、再び、競争社会で生き残らせるためではなく、神の御心(=互いに愛し合う)のもとに誘うためなのであります。
よく、教会の看板には上記の言葉が掲げられていますが、その実行には疑問視せざるをえません。
イエスから人々に「仕える」よう招かれた私たちは、今日、私たちのもとに来る人(=父がわたしにお与えになる人、ヨハネ6:37)を休ませ、神の御心に触れていただこうではありませんか
1997年10月26日(日)マルコ 10:46〜52
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今週のKey Word:「多くの人々が叱りつけて、黙らせようとした。」(マルコ10:48)
イエスに従う私たちは、互いに使え、僕として生きることに招待されています。
目の見えないバルティマイは、物乞いでやっと生きている人でした。彼が人間として、生きていて良かったといえる人生を送るためには、多くの人々の関心と援助が必要でした。しかし、彼に関心をよせる人も生活を支える人もいませんでした。むしろ、彼に対して、人々は無関心、冷淡で、時には叱りつけ、邪魔にし、虫けらのように扱っていたのでした。バルティマイは全く希望の見えないところで神々に呪っていたでしょう。
イエスは、そのバルティマイの叫び声に耳をとめました。次に彼を呼びました。そして、彼に尋ねました。「何をしてほしいのか。」イエスは彼に応えました。「あなたの信仰があなたを救った。」イエスは、「死」んでいたバルティマイを、「生」へと呼び起こしたのでした。バルティマイのもっともっと生きたいという熱望を引き出したのでした。
「人に仕える」とは、物質的、経済的援助をするだけではなく、このイエスのように、人々の声に心をとめること、勇気づけること、望みを引き出すこと、神に祈ることではないでしょうか。
さあ、今日、路上にうずくまっている人々の、声にならない呻きを聴くことからはじめましょう。
1997年10月19日(日)マルコ 10:35〜45
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今週のKey Word:「栄光をお受けになるとき」マルコ10:37
神の国に生きる私たちは、己の力、富を放棄し、神の憐れみに立って人々に仕える者になるよう招かれています。
今日のヤコブとヨハネは、それにもかかわらず、いまだ、イエスの想い(マルコ10:32〜34)を悟らず、「この世」の栄光をイエスに求めています。私たちは、日々、「栄光」を求めています。地位、富、人気、視聴率、信者の数、聖堂の豪華……、等々、しかし、それらは自力の衰えと同時にどんどん下り始めると、なりふりかまわず醜態をさらすのです。
神の国では、神において、互いに助け合うことによってしか生きられないのです。
「皆に仕える者になりなさい。」(マルコ10:43)
何故なら、互いが無力で空であるからです。イエスは、その中心にいます。無の無。空の空となって、多くの生命をつなぎ、よみがえらされたのです。
「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(マルコ10:45)
さあ、私たちも身軽になって、人と手をつなぎましょう。
1997年10月12日(日)マルコ 10:17〜30
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今週のKey Word:「子どものときから守ってきました。」(マルコ 10:20)
イエスに従う私たちは、形式、掟、伝統を守ることによって、自分を立てるのではなく、神の憐れみに生かされたものとして、人に仕えるよう、招かれています。
今日の青年は、金も自信もたっぷりありました。彼には不可能なことは一つもなかったのです。しかし、彼のプライドは「この世」にては価値あるものですが、神の国においては、何の役にも立たないのです。神の国においては、無一物であること、空っぽであること、神以外に己を立てる、家、兄弟、……畑さえも放棄することが求められるのです。
自分が無力であることを覚えるとき、神と他者にあるがままの自分を差し出すことができるのです。
さあ、無力にこそ働く神に感謝しましょう。
1997年10月5日(日)マルコ 10:1〜12
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今週のKey Word:「あなたの心が頑固なので」(マルコ 10:5)
イエスに従う私たちは、「小さな者」をつまずかせてはならず、むしろ、希望と勇気を与え続ける者として招かれています。
さて、私たちの社会では、規則さえ守れば、法を犯さなければ、また、人に迷惑さえかけなければ何をしても良いという考えが一般的であります。しかし、人に対しては、厳しいほど規則とか法を杓子定規に当てはめて、誤っていたり、はずれていたり、守らないと非難し、けなし、時には、暴力的に糾弾、排除までします。
今日の聖書の箇所のファリサイ派の人々は形式さえ守れば離婚しても良い、と考えていました。形式や規則は、強者・富者を守りさえすれ、弱者には冷たいものとなることがままあります。イエスは形式を楯にとり自己を守ろうとするファリサイ派の人々に対し、イエスは結婚そのものの意味を改めて考え直し、人がどのように生きることが神の望みであるかを思い直すように勧めたのでした。即ち、イエスは創世記を引用しながら、人の共同体性、パートナーシップとしての結婚の本質を示されたのでした。さらに、イエスの「小さい者」への慈しみ、「子供を受け入れなさい」という姿勢から、自らの小ささ性、子供性を互いに赦し、受け容れ合うこと、神の前における一致を目指すことを諭されたのでした。
私たちは、常に、人の上にたち、支配しようとします。そのために、人の欠点、弱点をあげつらって、攻撃し、支配下に置くのです。私たちは、結婚の相手にさえそのようにコントロールしてしまうのであります。しかし、イエスは結婚を祝福し、本来の人間の生きる姿、互いに愛し合う、ことの具体的実践の場であると、教えるのです。
さあ、自らをへりくだり、互いに仕え合おうではありませんか。
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